トラス氏の首相就任は嵐の船出だった
エリザベス女王から組閣の命を受けたトラス氏は9月6日、就任演説のため、スコットランドからダウニング街10番地の首相官邸に舞い戻った。お世継ぎ、ジョージ王子の誕生を思い起こさせるほど多くの世界中のメディアが官邸前に陣取った。皮肉にも欧州連合(EU)離脱で外交のフリーハンドを得た英国から世界は目を離せなくなっている。
しかし雷雨で就任演説は屋外ではなく、急遽、屋内で行われる可能性もあった。トラス氏は世界メディアの前でデビューするチャンスを失うかもしれなかった。筆者も官邸前でびしょぬれになりながら、ひたすら雨がやむのを祈り続けた。「1日の中に四季がある」と言われる英国だが、首相就任の取材でびしょぬれになるのは初めての経験だった。
2016年のEU国民投票日の未明にも雷鳴が何度も鳴り響いたことを思い出さずにはいられなかった。魑魅魍魎の保守党政治を生き抜いたトラス氏の政治スキルをもってしても市場の目はごまかせない。英通貨ポンドの対米ドル相場は1ポンド=1.23ドル(8月1日)から一時1.15ドルまで急落した。1976年と1992年(暗黒の水曜日)のポンド危機を予感させた。
雨がやみ、官邸のあるダウニング街に到着したトラス氏は「首相として3つの優先課題に取り組む。第一に英国を再稼働する。減税と改革を通じて経済を成長させる。第二にウラジーミル・プーチン露大統領の戦争によって引き起こされたエネルギー危機に対処する。第三に医療サービスを強固なものにする」と誓った。
「嵐がどんなに強くても英国民はもっと強い。力を合わせれば嵐を乗り切れる」と力を込めたトラス氏の最優先課題はエネルギー危機への対処だ。ロシアは制裁が解除されるまで欧州への天然ガス供給は再開しないと宣言。2020年には1サーム当たり10ポンド(約1万6000円)を割っていた英国の天然ガス価格は一時640ポンド(約10万6000円)を突破した。
減税を断行、消費者物価指数は約40年ぶりの高さに
一般的な家庭の光熱費(上限)は4月に年1277ポンド(約21万1200円)から1971ポンド(約32万6000円)に引き上げられ、10月から3549ポンド(約58万7000円)に値上げされる。トラス氏は400ポンド(約6万6000円)の払い戻しに加え、上限を最大2年間2500ポンド(約41万3500円)に据え置いた。
首相就任初日に財務官僚トップの財務省事務次官の首を切り、エリザベス女王の危篤が発表される直前に1500億ポンド(24兆8000億円)はかかる財政措置を下院で表明するという綱渡りをやってのけた。
これに恒久減税として1.25%の国民保険料引き上げと税率を19%から25%に上げる法人税引き上げを撤回(320億ポンド)、光熱費にかかるグリーン課税を一時停止(110億ポンド)、結婚減税(67億ポンド)。国防費の国内総生産(GDP)比3%への引き上げ(100億ポンド)。年間で総額597億ポンド(約9兆8700億円)の歳出削減か、財源が必要になる。
英政府の歳出は9000億ポンド台からコロナ危機で一時1兆1000億ポンド台に膨らみ、現在は1兆ポンド台で落ち着く。トラス氏の公約を実行に移すにはコロナ危機を上回る財政措置が求められるが、すべて借金で賄われることになる。7月の消費者物価指数は前年同月比で10.1%も上昇。1982年前半以来、約40年ぶりの高さである。
英中央銀行、イングランド銀行は10月に13.3%になると警鐘を鳴らす。10年物英国国債の利回りは20年当時の0.1%から3%台にハネ上がっており、長期金利が上がっている時に政府債務を膨らませるのはとても正気の沙汰とは思えない。すでに多くの専門家が「最大25%に達した1970年代の慢性インフレと同じ轍を踏む」と警告を発している。