どの時代のどの場所に生まれた命でも救う

むかしむかし、とある国に1人の王さまがいました。

ある日、王さまは世自在王仏という仏さまのお説法を聞き、これに深く感銘し、自分も悩める人々を何とかして救いたいという崇高な志を抱くようになりました。その志のため、王さまはその身分さえも棄て1人の出家者となり「法蔵」と名乗りました。

法蔵は世自在王仏に師事すると師のもとでさまざまな「仏の国」を観察しました。そして長い思慮の末、ついに仏として目覚め48の誓願とともに、阿弥陀仏となりました。

阿弥陀仏は苦悩に喘ぐ生きとし生けるもの全てを、自らの「仏の国」に導き救うと誓ったのです。この阿弥陀仏の国こそ、有名な「西方極楽浄土」であります。

これはほんの一部ですが、仏さまの誕生エピソードはなかなか新鮮なのではないでしょうか。

「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターバ」の音写語で「量りしれない光」あるいは「量りしれない寿命」を意味します。これは、どの時代のどの場所に生まれた命であっても漏れなく救うという願いの体現であり、阿弥陀仏の救済は年齢・性別・身分・善悪あらゆるものに捕らわれず全ての人々がその対象です。

私たちは仏さまに対してグルグル巻きの髪型(螺髪と言います)に微笑をたたえた仏像の姿をイメージしますが、実はあの姿は「仮」の姿とされています。

大仏
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というのも私たちは目で見て理解できるものでないとなかなか信じることができないため、仏さまはあえて仏像のようなわかりやすい姿を取っておられますが、本来は「限りない光」であり、私たちが救われる真理(働き)そのものであるともいわれます。ちなみにこのように真実を伝えるためにあえて仮の姿を取ることを「方便」といいます。

このような、人智を超えたものによる救済を説いた考え方は「大乗仏教」といわれ、お釈迦さまの時代よりも後の時代に成立しました。

念仏を唱えることで救われる

その中でも阿弥陀仏による救済は、特に平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて爆発的に広まりました。これは当時の時代背景の影響が考えられます。

当時の日本は各地で戦が繰り返され、大規模な飢饉や大地震が起こっていました。鴨長明の『方丈記』によれば都は死体で溢れ返るひどいありさまでした。市井の人々はその日の命をつなぐことに必死で、徳を積むどころか生きるためにやむを得ず許されざる行為に手を染めねばならない現実もあったでしょう。

現世で悪を成した人間の逝きつく先はどこか、地獄です。今生きているこの世も地獄、生まれ変わった来世もまた地獄。その中でただ、「南無阿弥陀仏」の念仏をとなえれば極楽浄土に往生することができる、その考えがどれほど人々に希望を与えたでしょうか。

単に死後の幸せを約束するだけではなく、私が救われている存在であるという「事実」が今を生きる力の源になっていったのです。