鉄道の価値観の軸は「安全性」だけではない

事故後に中国の高速鉄道を利用した人たちも、あの悲惨な事故を知らないはずはない。事故の原因究明が訴えられながらも車両が埋められ、証拠隠滅が図られたことも承知の上で乗っているに違いない。つまり「過去には死亡事故もあっただろうが、自分は大丈夫」という、極めて利己的で同時に人間らしい行動原理に従っているのだ。

心理学の世界では「正常性バイアス」という言葉で説明するそうだが、要するに、事故後に承知で中国の高速鉄道を利用した人たちは、まず利用する必要があったから乗車したのだ。そして、自分のその行動を正当化するために「自分は大丈夫だ」という勝手な理屈を作り出しているのである。

もちろん、それでも「あんな危険な鉄道には金輪際、乗らない」という人もいるだろう。しかし「自分は大丈夫」と考える人が多数派を占めれば、こうした乗車拒否を貫く人たちは“飛行機嫌い”と同じ扱いをされるようになるはずだ。本来、事故の確率からいえば旅客機はもっとも安全な乗り物だ。それでも断固として飛行機には乗らないという人たちも少数ながら存在するが、やはり“変わり者”として扱われているのだ。

中国高速鉄道の安全性を疑問視するのは当然だが、実際の世界は、少なくとも科学的な意味での「安全性」とは別の価値観を軸に動いているということだ。

事故は起きるし、事故後も鉄道は走り続ける

21年5月、メキシコシティで走行中の地下鉄車両が高架橋の崩落によって落下し、乗客26名が死亡する事故が起きた。この地下鉄は建設中から工事の杜撰さが指摘されていたというが、メイド・イン・チャイナではない。工事は、フランスのアルストムと現地財閥の合弁事業で、崩落した高架橋は現地財閥の担当だったという。

ちなみに、この「現地財閥」のオーナーのカルロス・スリムは『フォーブス』誌の選定する世界長者番付で1位になったこともある人物だが、どうも、ただの富豪ではない。2010年代にジャーナリストのディエゴ・オソルノが発表した彼の評伝のタイトルは『Carlos Slim: Patrón of Mexico’s Power Mafia』。「マフィア」という単語に目がいくが、敢えて訳すのはやめておこう。

メイド・イン・チャイナでなくても事故は起きる。そして、その後も鉄道は走り続ける。このことだけが、鉄道ビジネスの現実のように思えてしまう。たしかなことは、中国もアフリカも“こちらの現実”を重視している点だ。