野田が3月中の法案提出にこだわるのも「法制上の措置を」という所得税法附則の拘束があるためと見られている。
後に菅直人内閣にも入閣し、民主、自民の両政権で増税の推進役を担った与謝野馨(元経済財政相)が打ち明ける。
「あれは私が書いた法律。公明党は嫌がっていたけど、『定額給付金を実現したいなら附則を書くのに賛成してくれ』と言って粘った。公明党も最後は呑んだ。附則の規定は将来の内閣を拘束する。自民党がいつまでも政権を握り続けることに、私は不安を感じていたからです」
この仕掛けは与謝野と増税実現が宿願の財務省の共同執筆だったと見て間違いない。与謝野の予想は的中し、半年後の9月に政権交代となる。「向こう4年間、消費税増税はしない」と代表の鳩山由紀夫が明言する民主党が政権を握った。
財務省は「平成23年度までに必要な法制上の措置」という仕掛けが効き目を発揮するのを待った。仕掛けに基づいて「10年7月の参院選での増税提唱、11~12年で増税法案成立」というスケジュールを立てていたと見られる。
10年1月に財務相に就任した菅が増税封印の解除に傾斜するのを見て、財務省は仕掛けの始動に乗り出す。菅は参院選の前に消費税増税を打ち出したが、参院選敗北、東日本大震災発生と続き、計画は1年遅れとなった。その後に財務省で2年間、副大臣と大臣を務めた野田が登場する。財務省の筋書きどおりに代表選で消費税増税を唱え、「12年に増税法案成立」というレールを走り始めた。
野田は野党時代、消費税増税に積極的だった形跡はない。09年7月刊行の自著『民主の敵』にも、「消費税は何%が適切かといった議論は、日本の財政を完全情報公開したうえでの話」「消費税率アップを安易に認めてしまうと、そこで思考停止し」と書き綴っている。
さかのぼれば、04年11月、民主党内で特別会計ワーキングチームの座長となり、翌年8月に特別会計改革の「野田プラン」を取りまとめている。野田の原点ともいうべき活動だ。事務局長だった馬淵澄夫元国交相が振り返る。
「野田さんはそれまで『行政改革の人』だったが、ネクストキャビネットの財務相となった。そこで行革のアプローチとして特別会計の洗い出しという話が出てきて、チームがスタートし、『野田プラン』をつくったわけです」