なぜ戦死した山本五十六は「国葬」とされたのか
天皇から国葬を賜った「功臣」に対する評価は絶対的なものとなる。個人の意志にかかわらず、国葬を通じて「功臣」を追悼することが強制され、国民は一つの方向を向いて「功臣」に敬礼しなければならない。
もっともわかりやすい例は、山本五十六の国葬であろう。山本は、第2次大戦中の1943年に、戦局が悪化する中、ブーゲンビル上空で米軍機に撃たれて戦死した。山本は、先例に従えば本来対象とならないが、天皇の「特旨」によって国葬を賜ることになった。
国葬に際して、東条英機首相は、「一億国民の進むべき道はただ一つであり」、山本の精神を継承して「米英撃滅」に邁進し、「宸襟」(天皇の心。)を安んじなければならない、と国民にうったえた。国民的人気が高かった山本の戦死を利用して、戦時体制を強化しようという意図があからさまである。
銃後の母親たちには、国葬当日「弔旗を掲げるにしても、神棚へお燈明を上げて礼拝するにしても、お母さんたちは故元帥の遺志は自分たちがお継ぎするという気持を持ち、元帥こそは吾国民の鑑であることをよくお子さんたち達に説明してからにしていただきたい」などと指示が出された(『朝日新聞』1943年6月5日朝刊)。
国葬を通じて、国民はみな山本の遺志なるものを継いで、戦争に協力することを強要されたのである。
極端な例を挙げていると思われるかもしれないが、本質的に国葬は、国民を一つにまとめようとして実施されるものである。国家の危機に際して、山本の国葬ではその性格がむきだしになって表れたのである。
戦後唯一の例外「吉田茂元首相の国葬」
敗戦後、国葬令は1947年12月31日をもって失効した。
1946年には、地方官庁および地方公共団体に対して「公葬その他の宗教的儀式及び行事(慰霊祭、追弔会等)は、その対象の如何を問わず、今後挙行しないこと」と、国から通達が出されている。国葬をはじめとする公葬は、神式で行われてきた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が、神社・神道を政治から切り離して「国家神道」を解体しようとする中で、公葬も必然的に禁止されることになる。以後、現在に至るまで国葬を行うための直接の根拠となる法令は作られていない。
戦後唯一の例外として吉田茂の国葬が知られている。
1967年、吉田が急死すると外遊中だった佐藤栄作首相は急遽帰国し、国葬実施のための調整を進めた。まもなく閣議で国葬が正式決定し、佐藤は「もっとも苦難にみちた時代にあって、七年有余の長きにわたり国政を担当され、強い祖国愛に根ざす民族への献身とすぐれた識見をもって廃墟と飢餓の中にあったわが国を奇跡の復興へと導かれた」との談話を発表した(『朝日新聞』1967年10月23日夕刊)。
日本武道館で行われた葬儀は、国内外から約5000人の参列者を得て、宗教色を排除して実施された。皇太子夫妻(現・上皇、上皇后)も出席している。九段下には約8500人の群衆が詰めかけ、大磯の邸宅から武道館までの道のりには約7万人の人だかりができたという。
だが、吉田の国葬にはだれもがもろ手を挙げて賛成したわけではなかった。