「韓国語に訳せない日本語」にヒントがある

韓国にいたときには、塩のことも、生活に必要なものだとは認識していましたが、美味しいと思ったことはありません。日本の塩ラーメン、塩ダレ、塩味。これらを韓国語に訳すなら、少なくとも直訳は避けるべきでしょう。まったく別の意味になってしまうからです。

そう考えているうちに、ふと気が付きました。あ、そういえば、韓国語に訳せない日本語に、私が求めている「行間またはそれに準ずる何か」のヒントがあるのではないだろうか、と。そもそも言語の行間が街にも行間として表われているという発想だったので、街のそれをいきなり見つけようとせず、まずは日本語「だけ」の特徴をもう少し考えてみよう、と。

そしてその「だけ」の中でもっとも分かりやすいのが、韓国語に訳せない言葉です。日本の街に住むようになってからはまだ三年ですが、韓国語は当然できるし、日本語は随分前から勉強してきました。両方の言葉が分かるという利点を活かして、「訳せない」をヒントにすることもできるはずです。いままでは訳すために勉強してきたものを、訳せない部分のために使ってみるというのも、新鮮で面白い気がしました。

社会に共通する「感覚」によって伝わる日本語

エドワード・ホール氏の言う「高文脈」というのは、具体的に言わなくても話の流れ、その社会に共通する何かによって意味が伝わるという概念です。日本語こそがその最先端である、とも。文脈の中でも、個人的に、社会構成員たちに共通する「感覚」こそが、最大最強の文脈として成立するのではないか、と見ています。

その中には、もっと具体的な形で「発掘」されたものも存在します。日本社会は、「なんとなく」を形にした言葉を多用しています。日常で何気なく使っていて、相手にもほぼ共通した意味が伝わるけれど、実は詳しく説明するのは難しい言葉のことです。

この点、むしろ外国人にしかその凄さがわからないかもしれません。例えば、ビールの宣伝にはほぼ間違いなく出てくる「コク」とか、料理の美味しさの尺度の一つとされる「旨味」などがそうです。旨味は英語でもUMAMIで、なんとその存在が科学的に立証された、という話も聞きます。行間のような存在だったものが、一つの具体的な単語になって社会に出てきたわけです。

もちろん、まだそれらの言葉の「感覚」が分かっていない外国人からすると、まだまだ難しい単語ではありますけど、日本での生活が長くなるにつれ、「なんとなく」分かってくるでしょう。コクも旨味も、韓国語には直訳できる言葉がありません。

文化から言葉が出来たり、その言葉が文化を作ったり。言葉が感覚を認知させ、感覚が言葉になったり。この「感覚」というものは、実に強大な力を持っています。なぜ強大なのかというと、言語の文法を公式に変えたわけでもないのに、言葉の持つ「意味の伝達」という側面をガラッと変えてしまうからです。