しかしながら、名誉毀損罪には、政治家や公務員を批判しても、公益を図る目的があり内容が真実であれば罰せられないという特例がある。真実と信じた相当の理由が認められる場合も同様だ。
これに対し、侮辱罪にはこうした免責事項がなく、今回の改正刑法でも盛り込まれなかった。刑事罰の対象となる表現は、「軽蔑の表示」が含まれてさえいれば「何でもあり」のままで、罰則だけが重くなったのである。
しかも、侮辱罪の法定刑に「懲役」が加わったことで、刑事訴訟法の規定により「住所不定」の場合などに限定されていた逮捕要件が取り払われてしまった。
このため、政治家を批判するつもりでSNSに投稿したら、「侮辱罪に当たる」として逮捕されてしまう事態が起こりうることになった。となれば、公人が自らへの批判を封じ込める手段として告訴するケースも想定される。
何か口走ったら拘束されるかもしれないという漠然とした恐怖は、普通の市民にとって無言の圧力となり、政治家や権力への正当な批判を萎縮させてしまうことが容易に推察される。
捜査当局が逮捕をほのめかすことで政治家に都合の悪い表現を逡巡するようになれば、民主主義の根幹が揺さぶられかねない。
厳罰化によって生じる言論抑圧の危険性がクローズアップされることになったのである。
「首相はうそつき」は犯罪に当たるか…政府の説明は二転三転
侮辱罪の厳罰化をめぐって、国会では具体例を挙げながら論戦が繰り広げられた。
「『首相はうそつき。早く辞めれば』と言えば犯罪に当たるか」「三振したバッターやホームランを打たれたピッチャーに『給料泥棒!』と言ったら犯罪になるか」などの質問に対し、古川禎久法相は「犯罪の成否は、証拠に基づき捜査機関や裁判所によってなされる」と、正面から答えようとしなかった。
「閣僚を侮辱した人は逮捕される可能性があるか」との質問に対しては、二之湯智国家公安委員長が当初は「ありません」と答えたものの、次第に「あってはならない」と表現を弱め、最後は「逮捕される可能性は残っている」と答弁を変えた。
混乱の極みである。
あわてた政府は急いで統一見解を示し、この中で、公正な論評など正当な言論活動は処罰対象ではないとした上で、ヤジを含む表現行為については正当かどうか即座に判断するのは難しく、「現行犯逮捕は法律上可能だが、実際上は想定されない」と記した。
さらに、施行から3年後に表現の自由を不当に制約していないか検証することを改正刑法の付則に明記。検証にあたっては「公共の利害に関する場合の特例の創設も検討すること」とする付帯決議も行われた。
捜査当局の恣意的な取り締まりに一定の制約がかけられたが、検挙対象の不透明さは本質的に変わっておらず、危うさがつきまとう。