民主党の「政権交代」もドラマを求めた結果生まれた
民主党への政権交代が実現した09年衆院選も、ある意味同様だ。あの時も「政権交代」というただ一つの言葉に、人々は熱狂した。
「政権交代可能な政治」は、現行の小選挙区比例代表並立制が求める政治のありようであり、衆院選とは本来、常に「政権選択選挙」であるべきだ。だがあの時の選挙は、国民が(というよりメディアが)「自民党が政権を失い下野する」という「ドラマ」を求めて選挙を「盛り上げた」印象が拭えない。民主党政権に対し、自民党政権の何を変革し、どんな新しい国家像を打ち立てることを期待しているのか、メディアも国民も十分に問いかけることなく、ただ「お祭り」のように政権交代を実現してしまった。
もちろん、民主党の当事者たちに「自民党に代わり目指すべき国家像」といった意識が希薄だったのも確かだ。振り返れば、民主党が下野した後の野党の多弱ぶりや、現在の一部野党の迷走は、あの衆院選を「お祭りに流されて雑に戦ってしまった」ことの帰結であるようにも思う。
だが、その責任を当事者のみに求めるのは、少し違うのではないか。「盛り上がる」選挙を求めてきたメディアにも、責任がないとは言えないと思う。もちろん、その当時に新聞社の一員であった筆者自身の責任も認めざるを得ない。
どんどん淡泊になっていく新聞、テレビの国会報道
さて、現在の状況はここから大きく逆張りし、メディアが「盛り上がらない選挙」を意識的に演出しているかのように見える。テレビの国会中継や、与野党の政治家による良質な討論番組はめっきりと減った。新聞の国会報道も、ずいぶんと淡白になった。
わずか2年ほど前、コロナ禍でステイホームを強いられた多くの国民が、激変した自分たちの生活への不安に駆られながら国会中継を見た。ニュースで切り取られていない生の国会審議に初めて触れた国民も少なくなかっただろう。
そのことが結果として、安倍晋三、菅義偉の2人の首相を辞任に追い込み、先の衆院選で自民党に「下野の不安」まで抱かせたと、筆者は考えている(結果として政権交代は起きなかったが、昨秋の衆院選投開票日のわずか1週間前の参院静岡補選ごろまで野党側候補が勝ち続け、自民党側が不安を募らせていたことは間違いない)。
国会報道が減ったのは、まさかその反動なのか。岸田内閣への不信任決議案を採決した衆院本会議(9日)でさえ、NHKの国会中継はなかった。こんなことは言いたくないが、国会報道を国民から遠ざけて「ステルス政権」たる岸田政権への「見えない援護射撃」にしたい思惑でもあるのではないか。そんなうがった見方さえしたくなる。
国会は「盛り上がらないから報道しない」ことが許されるものではない。水道の蛇口をひねれば水が出るように、一種のインフラとして国民に提供されるべきものである。メディアがそこを枯渇させておきながら、今になって「盛り上がらない」というのは「自分の責任を棚に上げて、何を今さら」という思いしかない。