波紋を広げた「テレビを見て取材すればいい」発言
第一線の記者がどんどん減らされていることに抗議する労働組合に対して、編集局長が発した一言が大きな波紋を広げた。
「テレビを見て取材すればいい」
当然、社内では「懸命に頑張っている記者をバカにしているのか」と怒りの声が上がった。発言が漏れ伝わったネットでも話題となった。
私はその場にいなかったのでどんなやりとりのなかでの発言か、詳しくは知らない。編集局長は、「突発的な事故や事件があって、現場に記者が出せないような緊急事態になれば、テレビを見ながら原稿を書くのも手法の一つ」というようなことを話したらしい。
どんな言い回しにせよ、「テレビを取材源にしろ」と言ったことに変わりはない。私は怒りを感じたというよりも、「あ~あ、言っちゃったよ」とあきれてしまった。
本当のことを言うと、テレビの中継画像を見ながら原稿を書くことは禁じ手ではない。「よくあることだ」とまでは言わないが、新聞記者なら誰でも経験することだ。
マラソンや駅伝などのロードレースの取材では、むしろ積極的に使う場合がある。スタートからフィニッシュまで車などで伴走できるのは、レースの経過や途中の駆け引きなどの詳細を書くごく少数の記者に限られてしまう。周辺記事を書こうとすれば、レース中の選手の表情や沿道の様子などは中継画像を見るしかない。
当たり前のことだが、スタート前やフィニッシュ後は、テレビ画像取材を補うためにより綿密に取材することになる。テレビ画像と合わせて原稿を仕上げていくことは言うまでもない。
事件や事故によっては「現場への記者の到着が遅れた」「現場からなかなか原稿が届かない」などということが起こる。刻一刻と締め切り時間が近づいているときに、何もせず指をくわえて待っているというわけにはいかない。
そんなときは、テレビの中継映像を見ながら、“しのぎ”の原稿を書かなければならない。警察や役所からの断片的な情報と、現場周辺にかたっぱしから電話をかけまくって聞いた話と合わせて、とりあえずの原稿を仕上げてしのがなければならない。
「テレビを見て取材」はあくまでしのぎの原稿のため
ただ、これはあくまでも“しのぎ”の原稿だ。現場からの原稿が間に合えば、ただちに差し替えられる。新聞は、朝刊でも夕刊でも起こし版から最終版まで何回か版を改めて制作する。間に合う版から現場の記者が書いた原稿を掲載していく。版が改まってもテレビ画像取材の“しのぎ”の原稿がそのまま残っているということはない。
新聞記者が、テレビ映像を見ながら取材して原稿を書くなんて邪道だし、読者をバカにしている。ただ、白紙の紙面を出すわけにもいかず、やむにやまれぬ緊急避難的な手法だ。そんなことは新聞記者なら全員が理解している「公然の秘密」だった。
だから公式の場で編集局長が発言したと聞いて、思わず、「あ~あ、言っちゃったよ」と思ってしまった。
問題は「テレビを見て取材すればいい」と言ったことの理由にある。全国紙の機能が損なわれるような要員削減をしているから「なんとかしろ」と要求を突きつけられている場面だ。要員が足りないのなら「テレビを見て取材すればいい」と回答したことになる。
新聞記者なら誰だって、テレビを見ながら取材したり原稿を書くことに後ろめたさを感じる。しかし、一時的に“しのぎ”の原稿を書くためで仕方ないと言い聞かせているだけだ。
「現場に出せる記者が足りないのならテレビを見ながら原稿を書いてはどうか」などと、真正面から言われたら新聞記者は全員怒るだろう。
あわせてこの編集局長は「地域面は発表モノや通信社の配信記事でつくってもいい」という趣旨の発言をしたようだ。地域面には特ダネもいらないし、手間暇かけてまとめるような分析記事もいらないと言ったわけだ。
地域面に特ダネを書いたことがない記者が、ある日突然、一面や社会面で特ダネを書けるわけがない。「もう君たちは忠実な情報の運び屋でいいんだよ」と通告したことになる。
そのうち、「ツイッターやインスタグラムを見ながら原稿を書けばいい」などと真顔で話す編集局長がでてくるのではないか。
「あ~あ、言っちゃったよ」などとあきれていてよかったのだろうか。