『平成維新』はあのタイミングしかなかった

1989年の『平成維新』を「早すぎた」という人もいるが、それは違う。あれはパーフェクトなタイミングだった。

「維新」に等しいゼロベース改革に取り組んで2005年までに変革を成し遂げよう、と私は『平成維新』で呼びかけた。なぜなら05年に日本人の平均寿命は50歳を迎える。構成員の平均年齢が50歳を越えた組織では、変革へのモチベーションが急速に失われてくる。変化を嫌がったり、億劫になってくるのだ。企業も国家も同じことである。そういう実例を私はいくつもの組織で目の当たりにしてきた。

組織のトップマネジメントに「このタイミングでやらなければダメ」とアドバイスするのが私の商売だ。私が提言したタイミングで日本が改革を実行していたなら、「失われた20年」にはならなかっただろう。それをすっとぼけ続けた当時の自民党政権など、私に言わせれば重罪人だ。

もし日本株式会社というクライアントから依頼されていたら、あのタイミングで処方箋を出すしかなかった。日本の変革の最大最後のチャンスは、あの瞬間だったと今でも思っている。「大前の言う通りだ」と賛同してくれる人も大勢いて、『平成維新』は100万部を突破するベストセラーになった。その前に書いた『大前研一の新・国富論』も100万部を超えた。政策提言の本を読んで理解しようという知性と意欲を持ち合わせた日本人は、今よりもはるかに多かったように思える。また、国民は本当に国民のことを考えない官僚や自民党の利権構造に辟易としていた。

あれから二十数年が経過した2011年、『平成維新』の改訂版に当る『訣別――大前研一の新・国家戦略論』を書いた。日本を変革するための基本的なフレームワークは『平成維新』と同じだが、変革のリミットと見ていた2005年は過ぎ去ったので、ゴールを2025年に再設定した。一気の維新は難しい。小さな成功を重ねて、勢いを付けてから本格的な改革に乗り出そうということで、自信を失い、スケールも小さくなって、食欲も減退した今の日本人にちょっとでも食べやすいように「一国二制度」でまずは成功事例を作ろう、という工夫を凝らしたつもりだ。

間に合うかどうかはわからない。それでも書きたいときに書くのが私の流儀。気合を入れて『訣別』を書くぐらいだから、大前研一はまだこの国を諦めていないのだろう。

(小川剛=インタビュー・構成 市来朋久=撮影)