01年11月、日米欧で同時発売されたiPodは、いうまでもなく大ヒットし、「目に見えて量産体制に入った」。参入する磨き職人も急増した。

「磨き屋さんは『自分の技術が一番』という我の強い人が多く、また人数が増えた分、ばらつきが出て不良品が増えた。これではダメだから、最低限のレベルを保つためにマニュアルをきちっとつくって教えた。これで歩留まりが非常によくなって、新たに参加しやすくなった」

3年経つと、いよいよ人手が足りなくなって、素人の派遣社員に一工程ずつ指導、投入することも検討したという。

「東陽さんは中国の工場で研磨を始めた。我々も30人ほど、市の助成金を頂いて現地を視察しましたが、大勢の人が1~2工程ずつ流れ作業でやっていた。職人ではなく工員という発想。そうやって、鍋でも何でも燕の製品のほとんどは中国でもつくられるようになってきたんだね」

約2年をかけて、iPodの研磨はすべて中国へ移管された。「その間、5年半で計6000万個を磨いたときいています」。

現在、シンジケートでは富士重工業のジェット機の翼の研磨も手掛ける。国内大手の薄型携帯電話の仕事も入っていたが、一人一工程の量産品は、若い職人の技術向上が望めないとの理由から、受注をやめる決断を下したという。

磨き職人は高齢化に加え、きつい仕事だとして、若年層からは敬遠されているという。しかし、コピーしかできない工員ではなく、よりいいものを追求する職人であり続けることが、しぶとく生き残る道だと彼らは確信しているようだ。

(撮影=西川修一、小原孝博 写真=PANA)