ウクライナ独立後、初めての世界王者

ビタリ・クリチコには「2つの顔」がある。

ひとつは、ウクライナ出身者として初めてボクシング世界王者となったベニー・バス以来70年ぶり、独立国家となって初のウクライナ人世界王者である偉大な先駆者。

もうひとつは、ロシア軍の砲撃に晒され風前の灯火となった首都キエフを身体を張って守ろうとする鉄の市長。

なぜ2つの顔を持つようになったのか。どういった軌跡をたどってきたのか。波乱に富んだ半生を、ここで振り返りたい。

ソ連による「ジェノサイド」から生き延びた家族

ビタリ・ウラジミロビッチ・クリチコは1971年7月19日、旧ソ連キルギス・ソビエト社会主義共和国(現・キルギスタン共和国)に生まれた。

父はソ連空軍の軍人だったが、クリチコ家はソ連によるウクライナ弾圧の象徴「ホロドモール」(ウクライナ人の絶滅を企図した人工的飢餓)によって一族の多くが命を落としている。ビタリの反露思想の嚆矢こうしが、スターリン政権下のジェノサイドにあったのは示唆的としか言いようがない。

空軍退役した後に、父はチェルノブイリの原子力発電所で働きながら、ビタリとウラジミールの兄弟を育てた。

キックボクシングで頭角を現す

少年時代から長身だったビタリが頭角を現したのは、バスケットボールでもバレーボールでもなく、キックボクシングだった。

日本のボクシングプロモーターである野口修が、タイの国技ムエタイ(タイ式ボクシング)を日本風にアレンジして創設したキックボクシングは、意外と知られていないことだが、日本発祥のプロスポーツである。名付け親も野口修。すなわち「キックボクシング」とは和製英語なのだ。

野口がタイの首都バンコクで開催した「タイ式ボクシング対大山道場」に出場した空手家の黒崎健時が、オランダに渡り極真空手を伝えた折、定着する過程において、キックボクシングも欧州に広まった。「ユーロキック」として独自のルールで発展を遂げたばかりか、東欧にまで波及した。──とするのが諸説ある中で最も有力なものと見ていい。

17歳でキックボクサーとしてデビューしたビタリは、17勝2敗の戦績を引っさげ、WKA世界クルーザー級王者のジェームズ・ワーリング(アメリカ)と対戦する。

その後、K-1に参戦したほか、日本のプロレス団体「UWFインターナショナル」で異種格闘技戦を戦ってもいるワーリングの壁は厚く、ビタリは善戦空しく2対1の惜敗を喫する。