大切な人たちにいつも見守られている
私は僧侶として、「孤独死」の現場に何度か立ち会ったことがあります。ある60代の独身男性は、ご両親の月命日に必ずお墓参りでお寺にいらっしゃる方でした。定年退職後は町内会の役員もなさっていて、交友関係は広く、趣味のつながりでも親しい方はたくさんいらっしゃいました。ある日、朝になっても玄関前の電気が消えていないので、心配になったご近所の方が家に上がってみたら、テーブルに伏せるようにして亡くなっていました。私も呼ばれてすぐ駆けつけました。
ご遺体の周囲には、お供えしようとしていたお花が散らばっていました。お墓と仏壇用に様々な種類のお花を用意して、色や形を整えて束にしているうちに息を引き取ったようで、とても安らかなお顔でした。検死をした方によれば、スーッと眠りにつくように亡くなられたのではないかとのことです。意識が遠のいて眠るように、旅立たれたのでしょう。
昔は一般家庭の方でも、朝夕お仏壇にお茶やお水をお供えし、お線香を立ててから合掌し、お参りしてから出かけていました。そうしたことを日常的にしていると、ご先祖様の守護や加護を受けている感覚が芽生えてきます。そしていつかは自分もその仲間入りをし、今度は子孫を見守っていくという感覚が育っていくのです。日常的に本堂でお勤めをしている私も、お寺のご本尊様や墓地で眠るたくさんの自分や地域の人々のご先祖様たちから守られている感覚があります。大切な人たちとつながっているという意識があれば、死への恐怖は和らいでいくのではないでしょうか。
(構成=花輪えみ 撮影=南方 篤)