身内の死をみんなが悼む

人間が死ぬときは誰でも、自分を一番愛し、かわいがってくれた人がお迎えにくると言われています。仏教の祖であるお釈迦さまが、沙羅双樹の下で死を迎える場面を描いた「涅槃図」というものがあります。横たわるお釈迦さまの周りには、たくさんの人間、神々、鬼までもが集結しています。ほかにも、象やトラなどの動物、虫、木や花など、あらゆる生物がお釈迦さまの死を悲しんでいます。この絵には「生きとし生けるものは、みんな平等で、その命は尊い」という仏教思想が込められています。また「人が亡くなったとき、みんなが悲しい。人間でも動物でも虫でも、身内の死をみんなが悼む」ということも教えています。

独園寺 涅槃図
写真提供=独園寺
独園寺 涅槃図

右上を見れば、天上から誰かが迎えに来ているのがわかります。その真ん中にいるのがお釈迦さまのお母さんです。彼にとって大切な人々が雲に乗って迎えに来ている、そんな情景が描かれています。お釈迦さまはおだやかな表情で、おそらく何か楽しい夢を見ているのでしょう。

死んだ後の「あの世」は存在すると、私自身考えます。死後の世界は、この世から地続きに、あるいは空間続きにある場所かもしれません。死を迎え、心は肉体を離れても、脈々と受け継がれてきた魂やスピリットは生き続けます。そして魂やスピリットは別の場所に移動するのでしょう。ひょっとしたら、私たちの住むこの世界に存在しているか、またはパラレルワールドにいるのかもしれません。お互いの次元が違うから見えないだけ。だから魂は、なくなってしまうのではなく、継続していくのです。命日は「コンティニュエーション・デイ(継続の日)」。肉体は死んでも、魂の本質が存在する意味は変わりません。

「私が死んだら、みんな私を忘れてしまう」という不安がある方もいるでしょう。大丈夫、あなたが死んでも、存在を忘れられることはありません。人間関係が親密であった人はもちろん、険悪な関係に陥っていた人でも、それはそれで忘れることはないでしょう。ただ日々移りゆく生活の中で、思い出す回数は減っていくでしょう。しかし、それは自然なことなのです。残された人にも新たな出会いがあり、様々な出来事に遭遇する人生において、常に故人のことで頭がいっぱいでは前に進めなくなってしまいます。思い出す回数は減っても、決して「あなたを忘れた」というわけではありません。

そもそも自分の忘却を恐れるのは、誰かに深い愛情を注いできた証拠です。それだけで素晴らしいことなのです。残された人がお盆や墓参りの際に、心の洗濯をするように供養してもらえれば十分ではないでしょうか。日々の生活でも、何かの拍子にあなたを思い出すはずです。思い出は残された方々の心にしっかりと刻まれ、そのすべてが人生を形成する一部となっています。