「自分たちが裏切られた」感覚を持っている

かれらはウイルスを怖がっていたのではなくて、二度と戻らない自分たちの青春を失いたくなかったからこそ、社会に対して犠牲を払ったのだ。これだけ犠牲を払えば、きっと大人たちはわかってくれると期待して。

自分たちの献身によって社会がいきなり元通りになる保証などどこにもないことは、若者たちも十分にわかっていた。一か八かの賭けに近かったかもしれない。けれどもかれらは恩着せがましく「これだけやったんだからもういいだろ! 自分たちを解放しろ!」などと言ったりもしなかった。ただ大人たちが「ゆるしてくれる」のを期待していた。かれらには投票権すらない。社会的な決定を下す権力が少しもなかったのだ。

選挙の投票
写真=iStock.com/bee32
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その祈りは届かなかった。泣いたり、怒ったり、絶望したりするのも無理はない。

コロナウイルスが刻み付けてしまった世代間の分断に、いま世間の大人たちのほとんどが気づいていない。大人たちが気づいていないからといって、それが存在しなくなったわけでも、今後消えてなくなるわけでもない。若者たちは「自分たちが裏切られた」という感覚を持って生きていくことになる。分断はたしかに横たわっている。しかも深く広い。

大人になったとき、社会に貢献したいと思うだろうか

なぜいま20代の若者を中心として、仲間内だけを信頼して生活の確立を目指すような、「マイクロ共同体主義」的な価値観が急速に広がっているのか。それは私たち大人の側が、かれらの声なき声に耳を貸さなかったからだ。大人たちから犠牲を強いられ、感謝もされず、ついには「感染拡大の立役者」のような扱いすらも受けたかれらは、社会に対する基本的信頼感を失っている。

いわゆる「コロナ禍」と呼ばれる時期において、大人たちの世界はあまりにも「若者のことを考えていません」というメッセージをあけすけに発信しすぎた。若者がそのことに気づかなかったわけがない。人間社会が発明した社会・政治思想の最高傑作のひとつである民主主義が「投票権を持っていない・まだ世に生を受けていない世代」に対していかに不公平で冷酷にふるまうかを、この2年間のうちに若者たちに嫌というほど見せつけてしまった。

社会に対する基本的信頼を棄損された世代がやがて大人になったとき、かれらはこの社会に対して貢献しようと思うだろうか。自分の生み出してきたリソースを公共のための使おうとか、次の世代のために分け与えようと考えるだろうか。この2年間に失ったものは、経済や人命だけではない。目には見えない、大切なものが失われてしまった。

人種間対立や経済的格差といった分断と同じくらいに、「当たり前にあったはずの日々」を味わえた(選択できた)世代とそうでない世代との分断は根深い問題としてやがて浮かび上がってくる。

この分断を癒すことを望むのであれば、まだ世に物申す力も権限もない10代の子供たちがこの2年間にひたすら費やしてきた犠牲、献身があったことを知り、かれらの期待や祈りに思いを馳せなければならない。

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