若者にとってワクチンはせめてもの「取引」だった

私はこれまで、さまざまなメディアを通して「新しい生活様式」に協力だった若者たちについて、肯定的に述べていた。

とりわけワクチン接種に対しても積極的だったことについて重点を置いた。というのも、若者たちにとって、新型コロナワクチンを接種するのは(統計的に見ればかれらが新型コロナウイルス感染によって死亡するリスクはほぼ皆無であるため)自分のためではなく「社会貢献」「社会的連帯」の名目であることが明白だったからだ。

私は当初「ワクチン接種に若者は非協力的になるのではないか」とも予想していた。責めるつもりはなく、若年層での強い副反応から、非協力的になったとしてもそれは無理もないことだと考えていた。だが実際はそうではなく、かれらは自らすすんで接種した。驚くべき献身だと私はかれらに敬意を抱いた。

しかしながら、思うに若者側からすれば、ワクチンを打つことは「社会貢献」であった以上に、大人がつくった社会とのある種の「社会的な取引」のようなものだっただろう。ようするに、「ワクチンを打てば個人的な生活を正常化させてもかまわない」という譲歩を大人たちから得るための「落としどころ」と期待したのだ。

若い女性へのコロナウイルスワクチン注射
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これこそが「若者と大人世代の分断」だ

大人の側からすれば「そんな取引を決めた覚えはない」と言ってしまえばそれまでだ。しかし当の若者たちからすれば、ワクチン接種は「頼むからこれで手打ちにしてくれ」というメッセージが込められた、最後の献身だったのである。

だがその献身は顧みられなかった。2月に入り、修学旅行をはじめとする各種行事の縮小・中止が次々と通告され、若者たちは「裏切られた」ことに憮然としている。大人たちのつくった社会は、自分たちが若者と知らず知らずのうちに約束をして、そしてその約束を知らず知らずのうちに反故にしてしまったことに、まったく気づいていなかった。

もっとも「ワクチンを打つから、その引き換えに、自分たちに自由を返してくれ」というのは、若者が一方的にとりつけた身勝手な希望かもしれない。けれども、かれらがなぜ(本来なら自分たちにとってはそれほどメリットがないどころか、大きな副反応が出てしまうことがわかりきっていたはずの)ワクチン接種にも、あるいは「新しい生活様式」にも大多数が協力的だったのか。その真意をくみ取れなかったことはたしかだ。それこそ「分断」と呼ぶほかない。