タンザニアで起きた「構造的貧困」の実例
【野田】宮台さんが寓話を用いて解説した構造的貧困の実例を一つ紹介しておきましょう。
みなさんは、『ダーウィンの悪夢』(フーベルト・ザウパー監督、2004年)という映画をご存じでしょうか。このドキュメンタリー作品では、タンザニアのビクトリア湖周辺で起きた構造的貧困の過酷な実態が描かれています。
ビクトリア湖には半世紀前、何者かによって外来魚のナイルパーチが放流され、それがきっかけで周辺に魚の加工・輸出産業が誕生しました。産業化を支援したのは欧州連合(EU)や世界銀行であり、切り身に加工された大量のナイルパーチは主としてヨーロッパ、そして日本に空輸されています。輸送機を操縦するパイロットたちは旧ソ連地域からやってきます。
ところが、この映画を見ると、湖周辺の産業はタンザニアの人たちにけっして豊かさをもたらしていないことがわかるんですね。経済的に潤っているのは加工工場を経営する企業だけで、漁師やその家族は貧しい生活を送っています。
地域の人々は輸出用の切り身にはありつけず、骨とともに残ったわずかな魚肉の残骸を食べるのが精一杯です。貧困は、売春、エイズ、ストリートチルドレン、ドラッグといった新たな問題を生み出してもいます。
また、巨大な肉食魚であるナイルパーチは、湖の水草を食べる在来種の小魚を食べ尽くしてしまい、かつては生物多様性の宝庫であることから「ダーウィンの箱庭」とも言われたビクトリア湖の生態系は大きく破壊されてしまいました。将来、湖にはナイルパーチすら生息できなくなる可能性があると指摘されています。
善意からなる行動が突き付けた現実
しかしながら、この映画の中にも、はっきりとした「悪者」は出てきません。加工工場の経営者も労働者を搾取しようと思っているわけでなく、人々はむしろ自発的に職を求めてやってきます。パイロットたちも、自分の家族を幸せにしようと、それぞれの仕事に励んでいるだけです。
EUや世銀もこの産業を興すことによってタンザニアの人は豊かになるに違いないと見込んでいたわけです。むしろ善意からとも言える行動です。加工された切り身を消費するヨーロッパや日本の消費者にしても、タンザニアの人たちを不幸せにしようなんて気持ちはまったく持っていません。
安くて栄養価の高い白身魚を家族に食べさせたいと思っているだけでしょう。にもかかわらず、貧困は解消されず、湖やその周辺の状況を元の状態に戻すこともできない。『ダーウィンの悪夢』はそうした現実を僕らに突きつけています。
このように構造的貧困という概念には、私たちが向き合う社会というものの本質を理解するうえでのきわめて重要なメッセージが含まれています。