それでも、まだ本当に自分が求めているものは、わからないことも多いでしょう。自分で自分がわからない。その不思議な人間の性質は、幼少期のこんな経験に秘密があるからかもしれません。精神分析を専門とする哲学者ラカンの分析に面白い説があります。

鏡の中の「自分」から生まれる錯覚――哲学者ラカンの精神分析

ある日、お母さんに抱かれて、初めて鏡の前にやってきた幼い子ども。

子どもは、今までバラバラにしか見ることができなかった自分というものの全身の姿を、そこに見出します。この発達段階のことを、ラカンは文字通り、鏡の中に像を見出す段階、「鏡像段階」と名づけました。

幼児は喜びます、鏡の中に見つけ出したイメージこそ、自分自身だと思い込んで。この「錯覚」が、人間の自我の認識のすれ違いの原点にあるのだとしたら。

幼児が自分の姿と思っているのは鏡に映し出された像に過ぎないわけですが、それを実際の自分と同一視するところから、いわば虚構の世界へと近づこうとしても近づけない永遠のジレンマが始まります。

初めて「自分」を見出した喜びが、じつは苦しみの始まりにもなっている、というわけです。鏡の世界には誰も入ることができないのですから。

その後言葉を獲得し、客観的な認識を持つ過程で、鏡の中の「自分」は本当の自分ではないことにも気づき、この「鏡像段階」を抜け出していくわけですが、この体験は強烈なものとなり、多くの人々の心の底に残るのではないでしょうか?

成長を遂げ大人になっても、自分の存在を鏡の中という、自らが映り込んだものの中に見出す傾向が無意識に残ってしまうとしたら、それは人の心のありように、深く静かに影響を与え続けることでしょう。じつは本当の自分ではない幻を、ずっと自分だと思って追い回しているようなものなのですから。

ちなみに「欲望とは他者の欲望である」という言葉もラカンは残しています。

この幼児期の強烈な経験は、自分で自分を把握できない感覚の原点だと言えます。

服を試着している子供
写真=iStock.com/zorazhuang
※写真はイメージです

SNSが心にもたらす危険性

鏡の中に映る自分を、現実の自分と思い込む錯覚。この構造に近いものに、ぼくたちは日々接しています。あなたも毎日、「現代の鏡」をのぞいているのではありませんか?

そう、スマートフォン、そしてSNSの世界です。

何気ない思いつき、友人たちへのメッセージなどを公開し楽しんでいる人も多いでしょう。確かに便利で交友関係も広がります。

しかし、使い方を間違え、心が折れるような思いをしたことがある人もいるのではないでしょうか?

「自分のアカウント」を作り、「自分の写真」を連ねていくうちに、ネット上に生まれた自分に関するページ、自分の写真、言葉で埋め尽くされたページが、あたかも自分の分身、自分そのもののように感じ始めてしまう可能性があるのです。