相手の立場に立って判断する行為は損なのか

極端な例を挙げると、世間の相場を知らない相手が、あるものを相場よりも高い値段で買うと言う。その無知につけ込んで、「本人が買うと言うのだから、いいではないか。こちらもたいへん儲かる、いい商売だ」と売ってしまうということがあります。

相手が損をするのが見えているのに、「本人がいいと言うのだから売ればいい」と、自分の利益だけを考える。あとで必ず相手は困ります。

本能だけで考えて商売をした場合、自分に都合がいいかもしれない、自分は儲かるかもしれないが、周囲の人に損をさせたり、問題を引き起こすかもしれない。そういうケースがいくらでもあるわけです。

しかし利他の心で判断すると、相手のことを考えるわけですから、「ウチは儲かるかもしれないが、相手は今、知らないからこの値で買うと言っているだけだ。あとで必ず困られるはずだ」となって、「こんなに高い値段で買ってはいけません。私もリーズナブルな値段でお売りしますから、このくらいでお買いにならなきゃダメですよ」と言ってあげるはずです。

これは損をしたように見えますが、損ではないのです。相手の立場に立って利他の心で判断するという行為は、その恩恵が巡り巡って必ず自分にも返ってくるはずです。

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リーダーにとって最高の判断基準となるのが「利他の心」

「京セラフィロソフィ」では「自分を犠牲にしても他の人を助けてあげようとする心が利他の心だ」といっていますが、利他の心をもって判断基準にするのは経営者だけではありません。政治家でも、学校の先生でも、リーダーにとって利他の心は最高の判断基準なのです。

とはいえ、本当に利他の心で判断できるのは、悟りをひらいた聖者、聖人だけです。ですから私は、「利他の心で」と言っていますけれども、実際は私自身、まだまだナマクラで中途半端であることを承知で言っているわけです。

利他の心の究極の境地は、悟りの境地です。悟りの境地をひらくような修行をしてこられた人が判断される際の基準なのです。

そういう最高レベルの判断基準を持っていると、よく見えるのです。悟りをひらいた素晴らしい人に相談をした場合、「それはやってもいいと思いますよ」「いや、それはやめておきなさい」と簡単に言われますが、本当に偉い人には全部見えているのです。

自分だけよければいいという本能だけの人たちが、巷にはうごめいています。勝った負けた、取った取られた、儲かった儲からなかったと、もう血みどろの戦いをやっています。

そういう姿を、一段高い利他の心で見ると、本人は正しい判断をしたつもりでも、つまずくのが見えるのです。「そっちに行ったらこける」「そこでケガをする」ということが見えるわけです。