相撲部監督の実績をテコに、体育会内での権力を掌握

田中容疑者は1946(昭和21)年12月、5人兄弟の3男として青森県五所川原市金木町に生まれた。運動神経が良く、腕力も強く、近所の子供たちの上に立つガキ大将だったという。地元の名門、県立木造きづくり高校に入学すると、相撲部に入り、1年のときに全国大会に出場し、団体戦で準優勝した。

土俵
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日大に進学すると、1学年下の元横綱の輪島とともに大学相撲をリードした。3年のときには個人戦で優勝して学生横綱にもなった。しかし、輪島と違い、卒業してもプロの角界へは入らず、アマチュア相撲に徹した。日大に勤務しながら稽古を積み、全日本相撲選手権を3度制覇。1983年には日大相撲部の監督に就任し、次々と角界に力士を送り出した。1987年には東日本学生相撲連盟の理事長に選ばれている。

上昇志向の強い田中容疑者はアマチュア相撲での成功だけでは満足せず、日大内で政治的に動いた。日大相撲部の監督での実績をテコに日大体育会内での権力を掌握することを目指す。根っからの人たらしだった田中容疑者は、副総長に取り入って信頼を得る。

次に副総長の影響力を駆使して日大保健体育事務局の事務局長に就き、1999年には理事にも就任し、2008年に初めて理事長に選ばれた。日大本部で権力を握るようになると、その人事権を使って自分に従順な部下を出世させ、気に入らない職員を地方に飛ばすなどして冷遇した。田中容疑者はアメとムチの使い分けがうまかった。

「タックル事件」で記者会見へ出ないことに批判殺到

日大内では「田中理事長に仕えると、必ず昇進する」といううわさが広がり、田中容疑者の権力はますます強まり、逆らう職員や幹部はいなくなった。自分の周りをイエスマンで固め、日大を自分のものにして日大資金をリベートという形で獲得していった。2013年には総長制を廃止して学長を設けて教育と研究の統括に専念させ、大学の経営権を理事長に集約し、名実ともに頂点の座に就いた。同窓会「校友会」の会長も務めた。

しかし、2018年5月、日大アメリカンフットボール部の選手によるタックル事件が発覚する。田中容疑者は理事長という最高責任者にもかかわらず、記者会見など公の場に現れなかった。これに対し、日大の内外から批判の声が上った。暴力団幹部との付き合いも指摘された。

このころから田中容疑者の権力にほころびが生じ、そのほころびが背任事件、そして脱税事件へと結び付いたのだった。

タックル事件が社会問題になっても自浄能力に欠ける日大の体質は改善されなかった。もちろん田中容疑者の私物化は問題だが、日大というマンモス大学、巨大組織が生んだ負の落とし子が、前理事長の田中英寿容疑者なのである。日大にはまずそこを自覚してもらいたい。