2022年版世界大学ランキングで、東京大は35位、京都大は61位だった。京大前総長の山極寿一さんは「世界大学ランキングは授業料の高い英米の大学が富裕層への宣伝目的に使っている。世界の大学は商業化の波にのまれつつある」という――。

※本稿は、山極寿一『京大というジャングルでゴリラ学者が考えたこと』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

東京大学・安田講堂
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大学に求められている「人材の育成」とは

2015年の6月にドイツのハンブルクで開かれた学長会議には、オーストラリアをのぞく4つの大陸の28カ国39の大学機関から学長が集まった。当時京都大学総長だった私にとっては初めて世界の大学事情を知る機会となり、近年のグローバルな動きの中で世界の大学は日本と同じ問題を抱えていることを痛感させられた。

大学が直面しているのは、高等教育は社会のためにあるのか、それとも個人のためにあるのか、という問いである。

多かれ少なかれ、市民は次世代を担う若者が高等教育を受けるのを支援している。税金から教育費として国、県、市からの運営費交付金になる場合、個人の授業料として直接払われる場合、個人や企業からの投資や寄付金となる場合もある。それは、高等教育が未来の社会を支えてくれる人材を育成するという期待があるからである。しかし、社会とはどの範囲を指すのか、人材とはどういった能力を指すのか、それがはっきりとは定義されていない。

グローバリゼーションが加速するなかで、各国の大学は多くの留学生を受け入れるようになった。もはや大学はその国を支える人材だけを育成する場所ではない。人材とは国際的な舞台でリーダーとして活躍する能力を指すのか、さまざまな分野をつないでイノベーションを引き起こす越境的な能力を指すのか、それぞれの分野で引き継がれる高度な思想や技術を支え発展させる能力を指すのか、多様な考え方がある。大学はそのすべてに応えることが求められている。