アベノミクスで賃金はどう変わったか
次に賃金であるが、厚生労働省の「毎月勤労統計調査」(通称、毎勤)に不正があったため、『資本主義経済の未来』執筆時点では比較するための時系列データが得られない状況である。そこでここでは、同省の「賃金構造基本統計調査」を利用する。
この資料は年に一度しか公表されないが、正社員と非正社員(この統計では、正規・非正規社員という用語は使われていない)および短時間労働者というように、雇用形態別のデータが得られるという点で、毎勤のように、正社員と非正社員を区別しない統計よりも優れた点がある。
この時期に、労働時間の短縮が進んだことと消費増税が実施されたことを考慮すると、賃金の変化は消費増税の影響を除いた実質時給で見ることが合理的である。消費増税の影響を除いた19年の実質時給は、12年に比べて、正社員は3.5%、非正社員は9.2%、短時間労働者は8.9%と、それぞれ上昇した。
ただし、この期間に、直接税・社会保険料負担、とくに社会保険料負担が急増したため、実質可処分所得は実質時給が上昇したほど増加していないことが、家計が景気回復を実感できない大きな要因になっている。それに対して、実質賃金、とくに正社員の実質賃金が直接税・社会保険料負担の上昇を相殺して余りあるほど上昇しなかったことをもって、成果を否定する人がいるかも知れない。これに対しては、次の逸話で応えておこう。
労働組合がより高い賃金を要求しない理由
著者は日銀副総裁時代に、日銀が産業界の役員級の人をもっぱら懇談の相手としていることを問題であると考え、連合の幹部と懇談したことがある。その際、著者が「これだけ雇用市場が改善しているのですから、連合はもっと高い賃金を要求してもよいのではないですか?」と問うと、連合幹部は「しかし、物価が上がらなかったらどうなりますか? 企業業績も悪くなり、雇用の安定が脅かされます。賃金を上げすぎて、リーマン・ショック級の危機が起きたら、大変です」と応えた。
企業は、正社員の賃金をいったん上げると、景気が悪くなっても、なかなか下げられない。つまり、正社員の賃金の下方硬直性(景気が悪くなっても下げられない)が、賃金の上方硬直性(景気がよくなっても、あまり上げられない)をもたらしている。長い間、デフレ下に置かれた正社員は、雇用の安定(景気が悪くなっても、リストラされないこと)と賃金の安定を、すなわち、何事も「安定していること」を望むのである。
このように、連合に代表される正社員の企業別組合は、終身雇用制の下、企業と一体で、労使は運命共同体なのである。そうである限り、雇用が改善したからといって、おいそれと高い賃上げ要求はできない。これがこの時期に、正社員の賃金が非正社員(非正社員であれば、景気が悪くなれば、容易に解雇できる)よりも上がらなかった主要な要因である。