「見出しほどおもしろくなくてがっかり」経験はないか

読んでもらうことが良いニュースの定義に含まれる以上、読みたくなる見出しの競争が進むことそれ自体は歓迎すべきです。しかし、見出し自体はあくまで一つのテクニック、手段にすぎません。手段に拘泥して中身が伴わない記事が一つでも混ざってしまうと、読者が離れていくきっかけになってしまいます。もっと言えば、似たような見出しの記事であっても「信頼」を失います。

見出しで感情を刺激され、シェアしたけれど次の日にはシェアしたことすら忘れているなんてことはないでしょうか。あるいは大して中身を読まずにシェアしていることはないでしょうか。見出し先行で「おもしろそう」と思って読んでみたら、さほど良くもなくがっかりという経験はないでしょうか。こうした経験は、メディア側の手段がすでに目的化してしまっていることを意味します。

数字やシェア数の競い合いは、僕の感覚からすると地方支局で繰り広げられる特ダネ競争ととてもよく似ています。県警ネタを一刻も早く出そうと競い合う。ゲーム的な競争の先にいるのは読者ではなく、「良い結果を残した自分(もしくはメディア)」を認めてほしいという承認欲求になっているところが特に似ています。

SNSの「いいね」のイメージ
写真=iStock.com/Selman Keles
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数字主義の見出し競争は大事な信頼を傷つける

1年前にインパクトが強かった見出しであっても他に真似されて、量産されるようになればインパクトは失われます。そうなると新しい刺激を与えるため、常に新ネタを投下しなければならなくなります。

平成から令和に元号が変わるときによく見かけた、「今年は●●の終わりが始まる」「ポスト●●のキャリア」といった予測ネタの見出しはその典型でしょう。終わりが始まる、と言っておけば絶対に正解します。世の中で変わらないものはありませんし、いくつかの事例をピックアップして「ほら予測が当たっただろう」と強弁することもできます。

そもそも外れていたところで忘れられた予測は大した話題にもなりません。2018年によく見かけた「ポスト平成」論にしても、多くの議論は「ポスト●●」にかこつけて自分の願望を語っているにすぎません。良いニュースを競い合うのではなく、「数字を残せば良いニュース」という発想で感情を刺激する見出し競争は、いっときのPVと引き換えにニュースにとってもっとも大事な信頼を傷つけるというリスクを背負うのです。