スズキの名を世界に知らしめた「アルト」

鈴木修氏の経営トップとしての実績は、どうしてもインド市場で5割のシェアを握り、世界的な小型車メーカーに育て上げた「中興の祖」として脚光を浴びがちだ。確かにそれは疑いのない事実だ。

しかし、スズキを世界的な小型車メーカーに押し上げた原点は軽自動車にあり、それだけ鈴木修氏の軽自動車に対するこだわりは強い。それは社長に就任した翌年の1979年に投入した新型車「アルト」の存在を抜きにしては語れない。

税制などで優遇される4ナンバーの商用車のボンネットバンとして登場したアルトは当時の自動車業界の常識を打ち破る全国統一価格を設定、しかも1グレードのみの47万円という低価格を実現した。当時の軽自動車は廉価版で60万円程度だったことを考えれば、業界に衝撃が走ったのは言うまでもない。

いまでこそ国内新車販売台数の4割程度を占め、勢いがある軽自動車も1970年代は暗黒の時代だった。1970年に125万台を販売したものの、その後はオイルショックに見舞われ、これをピークにジリ貧をたどり、1975年には58万台にまで落ち込んだ。

これに危機感を抱いた軽自動車業界は排気ガス対策、安全対策も絡めて当局に働きかけ、ボディサイズの拡大、排気量上限の550ccへの引き上げを実現し、1976年に軽自動車の新規格が決定した。

スズキで新規格への対応に当たったのが当時取締役だった鈴木修氏であり、新型車開発を陣頭指揮し、アルトの誕生につなげた。

鈴木修氏が着目したのは当時、軽乗用車なら15%超の物品税が課せられたのに対し、商用車は非課税である点で、これを逆手にとって節税効果を武器に「前席2人乗りの実質的な軽乗用車として機能する商用車」を企画した。

新規格に対応した新型車は既に商品化の域にあったとされるものの、鈴木修氏は投入を1年延期し、社長就任後初の新型車としてアルトに社運を賭けた。鈴木修氏は自ら「カン(勘)ピューター」という言葉を使い、経営の重大局面を直感で判断してきたと茶化す。スズキにとって起死回生のアルトの投入はまさにカンピューターがフルに稼働した証しになった。

価格もコンセプトも常識破りのアルトの登場は、女性層らにターゲットにボディカラーを赤としたことで新しい購買層も引き付け、大ヒットした。当初の月間販売目標の5000台は1万8000台に達し、同業他社はアルトと同様な軽商用ボンネットバンで追随する。

今年4月末でスズキの軽自動車の国内累計販売は2500万台を突破し、うちアルトは524万台を占め、スズキ史上最高のヒット作となっている。新規格への対応の成否は同業他社と違い販売のほとんどを軽自動車に頼るスズキにとっては存亡をかけた戦いであり、アルトの大ヒットによりスズキはその後、軽自動車トップの座を長らく堅持してきた。

最後の大仕事

「逆境をバネに」がカリスマ、鈴木修氏の真骨頂であることはアルトを生み出した経緯からもうかがえる。それは、自称「中小企業」のスズキがグローバル化の進む世界の自動車産業にあって生き残りを賭けた手腕にも見いだせる。

いち早くインドの将来の市場性に着目し、1982年にインドで国営企業との合弁生産で合意し、今日の不動の地位を築いたのは言うまでもない。技術力や資本力の不足は海外大手との提携で補うという「小さな巨人」のしたたかさもあった。

当時世界最大の自動車メーカーだった米ゼネラル・モーターズ(GM)とは1981年から2008年まで資本提携関係を続け、最終的に係争にまで発展し具体的な成果につなげられなかったものの、ドイツのフォルクスワーゲン(VW)とも包括提携を結んだ。2019年にはトヨタとの資本提携を決断、「最後の大仕事」として、「100年に一度の大変革期」に臨む布石を敷いた。