※本稿は、永杉豊『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
中国に頼らざるを得なかった軍政時代
数多くの日本製中古車が行き交うヤンゴンの繁華街。頭上を見上げるとスマートフォンを手に微笑む美女の巨大な広告が掲げられ、サインボードには「HUAWEI」の文字が刻まれている。家電量販店に入ると「Haier」の冷蔵庫、「Midea」の電子レンジが一番目立つ場所に陳列されている。ヤンゴンやマンダレーなどの大都会はもちろん、ミャンマーの地方都市でも中国製品が溢れかえっている。
ミャンマーの貿易相手国を見ると、直近のデータでは中国が輸出の33.4%、輸入の32.2%を占め圧倒的な1位となっている。
この原因は長年の軍事政権下での民主化運動の弾圧が背景にある。1988年の「8888」民主化運動を武力で鎮圧し、1990年に行なわれたアウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが圧勝した総選挙の結果を認めず、そのほかにも国軍は何度も民主派の動きを弾圧してきた。そのような軍事政権に対して、アメリカはいくつもの対ミャンマー制裁法を制定して様々な経済制裁を科していく。欧州連合もこれに追随したためミャンマーは国際社会から孤立していった。
その孤立したミャンマー政権が頼ったのが、隣国の中国との国境貿易であった。中国もヒスイやルビーなどの宝石、石油や天然ガスなど、ミャンマーの豊富な天然資源を欲していたため、利害の一致した両国は国境の接する中国の雲南省を通じて陸路貿易を展開する。
王毅外相はクーデターを事前に知っていた?
もともとミャンマーは、2011年までの軍事政権下では「中国依存外交」だった。しかし、民政移管後は欧米との関係を緊密化し、中国と西側諸国を天秤にかけながら国益を導き出す「バランス外交」に転じた。だが、今回のクーデターで国際社会から孤立し、再び中国との関係を強化する方向に舵を切っているように見える。
実際にクーデター前後の動きとして、1月12日にミン・アウン・フライン国軍総司令官と中国の王毅外相が会談を行なっていたため、この時にはクーデターの計画は伝えられていて、中国に理解を求める何らかの根回しがあったのではないか、と疑われている。
クーデターが起きた当日の中国外交部の定例記者会見でも、「我々はミャンマーで起きている状況に注目し、さらに理解しようとしている。中国はミャンマーの友好的な隣国であり、ミャンマー各方面が憲法と法律の枠組みのもとで妥当に対立を処理し、政治と社会の安定を維持するよう求める」と、国軍を非難せず、政変という言葉すら使わなかった。