入院20床未満の「産科診療所」は日本特有

【髙崎】欧米では基本的に、常時麻酔の専門家が対応できる大規模施設でお産をするから、無痛分娩も普及しやすい、ということなのですね。日本はどうなのでしょう。

【海野】日本では、地域の周産期母子医療センターや大学病院が、緊急対応のできる大規模施設に概ね相当します。そして同時に小規模施設もある。年間に300~500件ほどのお産を行う、入院20床未満の「産科診療所」です。この「産科診療所」というのが、アメリカでもヨーロッパでも少ない、日本に特徴的なお産のあり方なんです。

そういった小規模施設では、大規模施設並みの医療資源を常時、確保しておくことはできません。帝王切開の場合も、専門の麻酔医の先生をおかず、産科の先生が自分で麻酔を施したり、産科の先生が麻酔の担当になったり、臨時に麻酔科の先生にきてもらうことが多くなります。

日本では、産科診療所などの小規模施設と、周産期母子医療センターなどの大規模施設との間で、ローリスクの妊婦さんとハイリスクの妊婦さんを分担して安全を確保しています。2017年の「医療施設(静態)調査(厚生労働省)」では、産科診療所が1242施設、病院が1031施設となっています。

妊娠中の女性と病院の医師
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60~70年代、分娩は「病院か診療所」でするものになった

【海野】このような産科診療所が日本にたくさんできたのは、戦後のことです。第二次世界大戦の際に軍医の必要性が増加したため医師が多数養成されました。戦後、これらの医師が国内の医療現場に復帰し、第一次ベビーブームのために必要とされていたお産を担当する医師の需要に対応して、開業したのが始まりです。同じ頃、助産師がお産を介助する「助産所」も生まれました。日本のお産は戦前までは、主に自宅で行われていました。加えて、都市部の長屋住まいで、自宅で産めない貧困層向けの産院があった。戦後は焼け野原で、お産ができるような自宅環境がなくなってしまったので、産科開業医の診療所と助産所が増えたのです。

このように、戦後の日本には、産院・開業医の産科診療所・助産所の3つの分娩場所がありました。それが60年代から70年代にかけて大きく変わります。助産所が減り、分娩は病院か診療所のどちらかでするものになっていったのです。

背景には、戦後、助産師(※編注:当時は「助産婦」だが、本稿では便宜上「助産師」に統一)教育がGHQによって大きく変えられたことがあります。戦前の日本の産婆は、医師なしにお産を担当する自律性の高い職業で、看護婦とは別の独立した資格でした。それをGHQがアメリカ式に、「助産師資格は、看護師資格がステップアップしたもの」と変えて、助産師になるには看護師資格が必要となったのです(1948年の保健師助産師看護師法)。この制度変更で、助産師の資格取得のハードルが上がりました。その戦後の助産師教育を受けた人の多くは、病院から勤務を始めることになりました。このため助産所でお産を担当できる助産師は数が少なくなっていきました。