マルクスを捨てて孔子に戻る中国

【安田】儒教は中国の近現代史を通じて批判の対象にされることが多く、その頂点が文化大革命だったと思います。ところが今世紀に入るころから、中国の儒教への回帰が一気に進んだ印象です。

中国ルポライターの安田峰俊さん
撮影=中央公論新社写真部
中国ルポライターの安田峰俊さん

【渡邉】1989年の六四天安門事件が分水嶺だと思います。事件後、江沢民が国際的に著名な儒学者と会ったり、1994年に設立される国際儒家聯合会の設立を中国政府が後押ししたりするようになりました。当時、中国は社会主義を事実上捨て、しかし天安門事件によって民主主義の道も否定した時期です。残っているのは儒教に代表される古典中国の魅力しかなかったということでしょう。

安田峰俊『八九六四 完全版』(KADOKAWA)
安田峰俊『八九六四 完全版』(KADOKAWA)

【安田】中国共産党は史上最大の秘密結社みたいなもので、中華人民共和国の建国は秘密結社が天下を取った出来事とも言えます。ただ、天安門事件をきっかけに秘密結社的な性質が薄れ、普通の中華王朝に変わった。それまでどこかに残っていた、理念的な人工国家みたいな雰囲気が消えたんです。

【渡邉】中国は近代の歴史のなかで儒教をいったん放り出して、マルクス・レーニン主義という新しい宗教を入れてみたわけですが、これではダメだということで元に戻ったのだと思います。古典中国に戻れば、資本主義も専制体制も許容され得ますから。

【安田】習近平用典』を読むと、習近平が演説で最も多く引用しているのは『論語』です。彼本人は荀子がお気に入りだそうですが、他にも儒家の言葉の引用が非常に多い。

【渡邉】論理の部分まで「帰ってきた」という感じがあります。中国古代史学者としては、古典中国の世界に「帰ってきた」という言葉を、実感を込めて用いざるを得ないですよね。よいか悪いかという話ではなく。

毛沢東が曹操を非常に高く評価している

【安田】最後にすこし三国志の話に戻ります。以前、『太平天国――皇帝なき中国の挫折』の菊池秀明先生から聞いたのですが、現代中国で太平天国研究は低調だそうです。理由は新興宗教の上帝会が反乱を起こして新国家を作る行為が、反体制的な疑似宗教団体・法輪功(『現代中国の秘密結社』に登場)を想起させるからだと。では、現代の中国国内における三国志研究は活発なのでしょうか?

安田峰俊『中国VS日本』(PHP研究所)
安田峰俊『中国VS日本』(PHP研究所)

【渡邉】歴史学の研究対象としては、三国志はもともと人気のある対象ではないですね。近年は中国の統一の重要性を強調する「大一統」との絡みから、秦や漢の研究なら人気があるのですが。三国志については、小説『三国志演義』の研究者のほうが圧倒的に多い。

【安田】史学科の1年生がよく勘違いする例のやつですね。実は『三国志演義』がベースの三国志、つまり横山光輝さん的な三国志やコーエーの『三國志』が好きな人は、東洋史学ではなく中国文学を専攻するのが正解です。歴史学はもっと地味な世界ですよね……。

【渡邉】そう。だから歴史学者の私が喋る三国志の話は「つまらない」なんて、よく言われてしまう(笑)。

【安田】かつて中国における三国志は、小説『三国志演義』のほか、講談や京劇の演目として、勧善懲悪の物語が語り継がれてきました。なので伝統的な解釈では、劉備・関羽・諸葛亮が善玉なのに対して、曹操は悪玉。しかし、日本では曹操の人気が高いと思います。

【渡邉】日本の場合、曹操人気については吉川英治さんの小説『三国志』と、そのストーリーがベースになっている横山光輝さんの作品の影響が大きいでしょう。ただ、実は中国でも曹操は評価が高いんです。なぜなら、毛沢東が曹操を非常に高く評価していたから。