中国上流層の「筋トレ」と「文トレ」

【安田】私が過去に取材した経験がある中華圏の偉い人は、香港の政治家と台湾の大金持ち、あとはアメリカに亡命中の山師的な大富豪である郭文貴くらいです。郭文貴の場合、取材前の雑談であえて古典や骨董の話をしてきて、こちらがどのくらい話題に乗れるかを見てきましたね。私は外国人枠という特例で、ギリギリ合格させてもらいましたが(『もっとさいはての中国』[小学館新書]参照)。

早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん
撮影=中央公論新社写真部
早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩さん

【渡邉】ビジネスで成功した中国人がまず何をするかというと、版本(はんぽん;木版で印刷された古書)や骨董品を買うんです。そういう部分で「文」の素養を示そうとする。いま、日本で宋版(宋代に刊行された書物)がオークションに出ると数億円の値がつきますが、たいていは中国のお金持ちが落札します。安田さんが会った郭文貴も、おそらくそういうタイプでしょう。

【安田】はい。郭文貴は叩き上げの政商で、三国時代なら州のひとつくらいは奪っていそうなタイプです。本来は知識階層の出身者ではありません。ただ、中国である程度まで出世すると、文化的な知識が必要になり、しかるべき人間に進講を受ける。郭文貴は筋トレが趣味なのですが、中国の上流層は肉体だけでなく「文トレ」もやるのでしょう。

【渡邉】そうですね。たとえば習近平さんも、古典学者から勉強しているみたいです。

【安田】習近平は文化大革命世代で、青年時代に陝西省の寒村に7年間も下放されているので、本当は前世代と比べれば古典の教養が弱いはずです。ただ、『習近平用典』(2015年)という、自分が演説で引用した古典の解説書を人民日報社から刊行させるなど、「文」の素養を熱心にアピールしています。

【渡邉】たとえ社会主義を掲げている国家であろうと、中国が中国である以上は古典に回帰していくんです。習近平はそんな現王朝(中華人民共和国)の中興の祖たることを目指している君主なのだと思います。

習近平が「取り戻す」時代はいつか

【安田】習近平政権の合言葉は「中華民族の偉大なる復興」です。中国では、世の中をよくするという考えが「過去に回帰する」という形で示されがちです。彼が理想とする時代は、やはり古代の周でしょうか。

渡邉義浩『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)
渡邉義浩『『論語』 孔子の言葉はいかにつくられたか』(講談社選書メチエ)

【渡邉】周はよく理想化されますが、中央集権国家ではないのでちょっと戻りにくいのですよね。また、始皇帝の秦は中央集権ですが、すぐに滅んでしまったので都合が悪い。そこで、古典中国の理想は漢ということになります。歴代王朝で最長の約四〇〇年間を統治し、シルクロードの少数民族地域にも支配を伸ばしていましたから。

【安田】唐も理想的でしょうけれど、漢のほうが古いですしね。なにより漢は、中国文化の基本である「漢字」「漢語」の名前の由来になった王朝です。

【渡邉】その通りです。漢は中国が統一された「大一統」の時代ということで、近年の中国では非常に喜ばれる。また、漢が理想化されるのは歴史書『漢書』の影響もあります。

【安田】読み物として一般的にも人気が高い『史記』ではなくて、『漢書』なのですね。

【渡邉】史記』は批判的に歴史を記した本。いっぽう、『漢書』は漢王朝のすばらしさを言祝いだ本なんです。ゆえに中国では『漢書』が好まれ、後世に読みつがれるなかで漢が理想化され、漢の文化が古典化していった。儒教を国教とする漢の国家体制についても、それが中国の望ましき姿であると認識されるようになったのです。