2002年の日韓W杯で「サッカーを仕事にするしかない」

大学生になっても熱狂は冷めませんでした。例えば東京の国立競技場でデーゲームを観戦した後、19時キックオフの試合を見るために神奈川県川崎市の等々力競技場に向かう。日本代表を応援するために、日本全国を訪れる……。サッカー中心の大学生活を送りました。

水戸ホーリーホックの小島耕社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
水戸ホーリーホックの小島耕社長

卒業後はスポーツ新聞の記者がいいかな、と考え、新聞社を受験しました。しかし就職氷河期で希望がかなわず、印刷会社に就職したんです。

印刷会社のサラリーマンとして、教科書を販売したり、学校の卒業アルバムを制作したり。それでもスポーツにたずさわりたいという思いは消えなかった。

きっかけとなったのは、横浜FCのボランティアライターに応募したことです。試合のプログラムやクラブの公式媒体などを手がけるうち、Jリーグの公認ファンサイトである『J's GOAL』からも仕事をいただくようになりました。

その後、大きな転機がありました。2002年に開催された日韓ワールドカップです。できるだけたくさんの試合を現地で見たい。しかしまだ28歳で蓄えはない。そこで、会社をやめて、退職金で買えるだけのチケットを手に入れた。そして、日本と韓国を行き来しながら決めたんです。これはもう本格的にサッカーを仕事にするしかないな、と。

「水戸ホーリーホックに売り込みたい選手がいる」

——日本のサッカーが大きく変わった「1993年のJリーグ発足」と「2002年の日韓ワールドカップ」に、小島さんも大きな影響を受けたんですね。

そうなりますね。日韓大会後は日本初のサッカー専門紙である『エル・ゴラッソ』の創刊にたずさわり、デスクとして2006年のW杯ドイツ大会、2010年の南アフリカ大会を取材しました。テレビで解説などの仕事をいただいたこともあり、サッカーライターとしては達成感がありました。そんな時期に「映像制作会社を立ち上げるから手伝ってくれないか」と業界の仲間から声をかけられたのです。

——サッカー関係の映像制作会社ですか?

主にBSやCSのスポーツ番組制作を手がける会社です。私は番組プロデューサーという立場で『Jリーグラボ』や『Jリーグマッチデーハイライト』などの制作にかかわりました。

そして2018年12月、サッカー選手の仲介人としても活動していた同僚に、こんなお願いをされました。

「水戸ホーリーホックに売り込みたい選手がいる。小島さんは茨城出身でしょう。西村(卓朗)GMとの交渉の場に同席して、地元トークで盛り上げてもらえないか」

メディアの人間として、サッカー界にかかわって十数年たっていましたが、代理人とクラブの交渉の場に居合わせた経験なんてありません。面白そうだ、と軽い気持ちで指定されたホテルに行ったんです。