「すごい人」と言われるのは嫌だ
ここ数年は本を出したりしたこともあり、顔と名前が多少知られるようになった。はじめて会う人でも、僕のことを知っていてくれる、ということが増えた。
それはありがたいのだけれど、困惑してしまうこともある。
僕が嫌なのは「伊藤さんのような『すごい人』と話せて……」と言われることだ。
以前は、そう言われるたびに「すごいってなんですか?」と食ってかかっていた。なんとなく腹が立った。
「すごい」と言われて、なぜ腹が立つのか。自分でも最初はわからなかった。「伊藤さんのようなすごい人」というのは、客観的に見れば褒め言葉だ。
しばらく考えて、理由がわかった。
「すごい」と言ってもらえるのは、僕の仕事が誰かの役に立ったからであり、その結果、ある程度は名前も知られるようになって、ときには「先生」扱いされるようになったからだろう。そういう僕を褒めるつもりで「すごい」と言ってくれているのだろう。
でも、僕を「すごい」と思っているということは、それ以外の「すごくない」人もいると考えているということだと感じた。
「すごい人」がいて、その下に「すごくない人」がいるという序列を前提にしている。その価値観というか、世界観が嫌だったのだ。本当はおそらく、誰もそんなことは考えていないと思うが……。
僕がすごいのだとしたら、みんなすごいのだ
前に言った通り、僕は人から学ぶしかないと思ってやってきた。
「自分が学ぶべきはこういう人だ」と選別したわけではない。
自分以外全員から学ぼう、という感覚だった。
最初は、自分はダメだから、「みんな俺よりはすごいのだ」と思っていた。けれども、それも間違いだとやがて気づいた。自分よりすごいとかすごくないではない。自分と他人は違う。だから、他人は自分とは違う経験や知識、感覚を持っている。それは自分にとって価値がある。だから、自分以外全員から学ぶ。
だったら、自分だって人の役に立てることがあるはずだ……と思えるようになっていった。
だから、僕は「すごい人」と「すごくない人」がいるという感覚は受け入れられない。
僕がすごいのだとしたら、みんなすごいのだ。みんながすごくないとしたら、僕もすごくない。
それぞれがオンリーワンであるからこそ、人から学ぶ意味は大きい。
そして、それは誰もが自分の思いや考えを口に出していい、行動で表していい、それらにはすべて価値がある、ということでもある。
あなたも、誰かを「すごい人」と見てしまうことがあると思う。
「すごい人」を何人か思い浮かべてみよう。
「すごくない人」も、同じように思い浮かべてみよう。
今思い浮かべた、「すごい人」も「すごくない人」も、大切な存在だ。