「自分のためにもみんなのためにも」は同調圧力とは異なる

「自分のためにもみんなのためにも、行動の自粛をしないといけない」と思うことは、同調圧力とは異なるものでしょう。オックスフォード大学の苅谷剛彦教授は、人々が自粛を受け入れるメカニズムとして、「法の枠組みの中での命令服従」という関係でなく、「共同体で共有された善悪の基準」というものを挙げています。日本社会には共同体の道徳観があって、その基準を多くの人が受け入れているということです。

私は、共同体の道徳観のルールというものが、日本社会では、国家と個人の間に、中間的な構築物である「中二階」として存在していて、国家による命令がなくても、自粛が機能していると考えています。

もちろん、苅谷教授も指摘するように、自粛の氾濫が起きてしまうと、自粛警察を生み出してしまったり、過度な忖度が生まれてしまったりする懸念もありますが、共同体の道徳観イコール自粛警察、同調圧力ということではありません。同調圧力という言葉に惑わされて、悪い方向にばかり考えない方がいい。

日本には相対的に優位になれるポテンシャルがある

——なぜ日本には共同体の道徳観があるのでしょうか。

日本のように古い国では、歴史のある共同体が沈殿するかのごとく、無意識のうちに社会を囲んでいます。そこに道徳観が長く存在し続けているということです。

日本の国の風景
写真=iStock.com/CHENG FENG CHIANG
※写真はイメージです

「ムラ社会」と言われることもありますが、大昔から、狭い国土に多くの人が住んできたことによる共同体の道徳観はこれからも長い間、良くも悪くも残り続ける部分があるというのは意識した方がいいでしょう。

逆に、アメリカは社会が新しすぎて、共同体の共通の道徳観が生まれにくい。しかしそれが多様性の活力の源泉になっている面がある、ともいえます。

——強い規制ではなく、緩やかな自粛による感染対策をしてきた日本は、ポストコロナの時代に、どんな経済回復のシナリオを描けるのでしょうか。

コロナショックによる経済的被害が欧米ほどではないため、経済回復の基礎体力が欧米よりも大きく、ポストコロナの国際競争におけるポテンシャルになると考えています。

しかも、「一配慮・一手間」の特徴を産業の現場でもさらに生かして、日本が相対的に優位になれるポテンシャルもあります。