予防接種のために停戦協定を結ばせる
WHOではポリオによる小児まひの根絶やSARS(重症急性呼吸器症候群)の感染抑制、新型インフルエンザ対策などにも力を注いできた。
「公衆衛生の仕事では、国際機関や各国政府、企業、地方自治体、現場の医療機関、ウイルスの発生源と思われる家畜を飼う農家まで、さまざまな関係者とコミュニケーションを取ることが重要です。感染予防のために人や物の流れを止めるとなれば、経済や人々の日常生活に与える影響も極めて大きくなります。医学的な根拠やデータだけでなく、政治や経済も含めた幅広い知見を持って、提言しなければいけません」
関係者との連絡、調整、交渉役といった、どちらかといえば役人やビジネスマンのような仕事にも近いという。
「例えばポリオの根絶にあたっては、30億円のワクチン購入費を捻出するため、“営業マン”として、ありとあらゆる組織に頭を下げて回ったり、複数の国の間を行き来してお互いの主張をすり合わせたりしました」
内戦中の国や政情が不安定な国に対しては、予防接種のために停戦協定を結ばせたこともある。
「フィリピンでは、当時ミンダナオ島で内戦が勃発しており、ワクチン接種どころではありませんでした。しかし、ラモス大統領(当時)に依頼し、予防接種のために紛争当事者同士の間で『停戦協定』を結んでもらったのです。同様のことが、クメール・ルージュと紛争中のカンボジアでもありました」
学校閉鎖を決意させた一枚のスライド
WHOを退任し、帰国してわずか3カ月後の2009年には、メキシコで豚由来の新型インフルエンザが発生した。
尾身氏は、当時の麻生首相から専門家諮問委員会の委員長に任命された。
「日本で流行し始めたのは大阪府と兵庫県で、当時の橋下徹知事と井戸敏三知事は直ちに学校閉鎖に踏み切りました。実はこの素早い判断は、私が以前、お二人に見せた1枚のスライドがきっかけでした。それは20世紀初頭、スペイン風邪が流行した際の、アメリカの二つの街の死亡率を比較したグラフでした。死亡者数を減らすには、感染の初期の段階でなるべく早く学校閉鎖などをすることが望ましいと伝えておいたのです」
このアドバイスが功を奏したのか、結果として日本での死亡率は世界の10分の1と桁違いに少なく抑えられたそうだ。
「公衆衛生学の知見を活かし、学校を閉めたり、人の往来を減らしたりといった判断で多くの命が救えます。とてもやりがいのある仕事ですね」