日本サッカー協会会長などを歴任し、「キャプテン」の愛称がある川淵三郎氏は、トヨタ自動車と深い関わりがある。そんな川淵氏は『トヨタ物語』(日経BP)を読んで、涙が止まらなくなったシーンがあったという。涙のワケをノンフィクション作家の野地秩嘉氏が聞いた――。

※本稿は、野地秩嘉さんのnote「「トヨタの強さ」『トヨタ物語』続編連載にあたって 第6回」の一部を再編集したものです。完全版はこちら

川淵三郎氏
提供=日本サッカー協会

大野さんはおっかない人だった

僕はトヨタ生産方式を体系化した大野(耐一)さんに会ったことがあるんだ。古河電工時代、名古屋支店の金属営業部長だったから。

大野さんは名古屋では有名人でした。「かんばん方式の大野」と言えば知らない者はいなかったんです。ですからゴルフ場で会ったら、私は必ず挨拶していました。

名古屋の和合コースの月例会で同じ組になった時のことです。私はバンカーで3つ叩いたのに、それを忘れて「このホールのスコアは7でした」と申告した。すると、不思議そうに僕の顔をじろっとにらむんだ。

あれっと思ってもう一度、数え直して「すみません、8打でした」と後から言ったら「ああそう」……。冷や汗をかいた記憶がある。しゃべらないで、じろっとにらむだけ。それでもおっかない人だった。上背は高いし、迫力のある人だった。

※川淵キャプテンが古河電気工業名古屋支店の金属営業部長をやっていたのは1982年から6年間。45歳から51歳まで。日本電装(現・デンソー)に伸銅品を営業していた。

サッカーのことなどまるで考えなかった

トヨタの車がどんどん売れていた時代だったから、僕たちがデンソーに納める伸銅品も合わせて伸びていった。伸銅品はラジエーター(放熱装置)、ヒーターに使う材料だったんですよ。当時、部下を集めて「扱い量が千トンを超えたら沖縄旅行に連れていく」とハッパをかけたら、全員が頑張って5年間で目標を達成してしまった。倍々ゲームで売らなきゃ達成できないような目標だったけれど、1年、前倒しで達成したんです。

それくらいトヨタの売り上げは急上昇していた。そのため古河電工は三重県の亀山に、デンソーに納めるための伸銅品の専用工場を建てたくらい。それまで、古河電工のお得意先は電電公社(現・NTT)、もしくは東京電力などの電力会社だった。電線が主な製品だったからね。

デンソーへの納入実績が増えたから、僕はこれは出世するぞと思い、実際、ある程度まで偉くなったけれど、最後は左遷されて、それでサッカー界に戻り、Jリーグにつながるわけだ。

でも、名古屋で働いていた頃はサッカーのことなどまるで考えなかった。デンソーのサッカー部に監督を紹介したりはしたけれど、それよりも仕事だった。僕もよく働いたけれど、トヨタの人、デンソーの人もよく働いていた。よく働き、よくゴルフをした時代でした。