「朝寝朝酒朝湯が大好きで……」といえば、皆さんご存じの福島県の民謡、「会津磐梯山」の囃子言葉だ。小原庄助さんは、朝寝朝酒朝湯の放蕩三昧で身しん上しようを潰したという。しかし、他人事ではなく、「本当に潰れるのではないか」と強く懸念され始めているのが日本だ。

日本という国のシステムを考えるとき、私は銭湯にたとえることがある。風呂桶が経済そのものだ。景気の状態を示すお湯の適温は38~42度。その風呂桶のなかのたっぷりのお湯が適温に保たれるように風呂釜を管理するのが、政治家の役割である。

日本のシステムを銭湯に例えたら

日本のシステムを銭湯に例えたら

しかし今、経済のグローバル化、金融工学の発達を経て、世界中が未曾有の金融危機にさらされている。過剰に創出された信用は一気に収縮し、これまでの風呂釜では調整が利かなくなった。このままでは、風呂につかっている国民の体は冷え切り、病気になってしまう。そして、風呂釜の管理をまかせてきた、政府・与党の政治家に対する不満は爆発寸前にまで高まっている。

それにもかかわらず、政府・与党からは「適温を保つために、いい風呂釜を探して付け替えよう! 風呂釜選びは私に任せてほしい!」との声が聞こえるばかり。自分の管理能力の低さは省みられない。そして、風呂釜の管理者の交代を議論している場合ではないと主張する。

抜本的な対策を打つのは、2009年以降だという。さしあたって行われるのは、薪のくべ直しや、風を送るといった姑息なことばかり。近視眼的なものであり、長期的展望などないに等しい。

確かに薪と新鮮な空気があれば、少しは湯の温度の上昇も望めるが、風呂のなかの国民の半数以上は、「そこに薪をくべても、風を送ってもだめだ」と異を唱える。「すぐに手を打たなければ心臓が止まる」と、悲痛な叫びをあげる者もいる。それなのに、新しい管理者を選ぶ機会さえ与えられない。冷めていくお湯に体を預けるしか、手立てがないのだ。

本来、我々は入浴料金という税金を納めているはずである。それは、適温のなかで生きるためのコストとして負担しているものだ。しかし、その入浴料が、適温を保つための風呂釜の交換に使われる気配はない。富士山の絵を描き直したり、業者と談合して薪を無駄に高い金額で仕入れたりしている。

はじめから冷水に投げ込まれれば、その冷たさに耐えかね、危険な行動を起こすだろう。しかし、だんだんとぬるくなっていくのでは、いつしかその冷たさに慣れ、冷えたことを感じないまま、凍え死んでしまう。かといって、日本という銭湯の住人である我々は、そこから抜け出すわけにはいかない。それでは凍え死んでいくのを待つしかないのだろうか。

我々の最も身近な経済は、家計である。もう一つ、企業会計というのもある。企業人は企業活動を支え、その結果として企業会計があり、企業会計のなかから、皆さんの給与が支払われている。それが家計のベースとなる。

「家計も企業会計も身近に感じられるが、国の経済はどうも見えてこない、実感が伴わない」という人は少なくないが、国を動かす動力となっているのは、我々の納めている税金である。

その税金は我々の労働から生み出されたもので、労働からどの程度の利益が得られるかは、国が構築した制度に影響される。制度がいいものなら、最終的には家計運営がしやすくなり、生活は豊かになるはず。家計と企業会計と国家の経済は直結している。そうしたことを自覚したうえで、風呂の温度を監視したい。

正月は小原庄助さんよろしく、ゆっくり風呂につかりたいものである。もちろん適温で。

(高橋晴美=構成 ライヴ・アート=図版作成)