ピンときた言葉をメモしてまとめて引き出しを増やす
読んだ本は、誰もが知るような名著、偉人の伝記や歴史物など幅広いジャンルにわたった。『論語』をはじめ、中国のことわざなどをまとめた中国古典は特に好きで、かなり読み込んだ。長い年月をかけて大勢の人に読まれ、支持され続けてきた本には普遍的な内容が必ず書かれているものだ。
ピンときた言葉、心に響いた言葉があると、片っ端からメモを取った。とにかくメモして、改めてノートにまとめ、それを壇上で話せるように暗記した。こうして自分の頭の中に野球以外の“引き出し”を増やしていったのだ。
ちなみに、元プロ野球選手など、誰かの野球理論をまとめたような本を読むことはほとんどない。自分の中に野球理論ができあがっているからだ。
ヤクルトからのオファーは苦手なことに励んだ結果
熱心に読書をするようになって、自らの野球に対する思いや考えをよりわかりやすく、明確に「言葉」にして伝えられるようになってきた。
「俺はもうバットを持つことも、ミットを構えることもできない。それなら“言葉”の世界で野球を追求してやろう!」なんて思ったわけだ。
体が使えないなら、言葉を使う。腹が決まったら徹底的だ。講演会への移動時間は読書に費やした。場数を踏むことで、講演会自体にも慣れてきた。大勢に自分の思っていることを伝えるために、しゃべり方にも気をつかうようになったし、言葉の選び方も変わった。
「素晴らしい」とまではいかなくても、「頼んだ方の期待に応えるような講演会になってきたかもしれない」と思えるようにはなった。
私の野球理論は、話術が磨かれたことにより、多くの人に説明できるものとなっていった。多少強引だったけれど、沙知代がたくさんの講演会の予定を入れてくれたおかげで、「言葉」の世界で野球を追求することができたと思っている。
苦手なんてものじゃなかった講演会という現場が、私を鍛えてくれた。そのときの経験が、その後の監督人生を後押ししてくれる力になった。
実際、講演と評論を中心にした活動は9年ほど続いたが、1989年にヤクルトから監督就任の打診を受けることになる。
何の接点もなかったヤクルトからオファーが来たのは、当時球団代表だった相馬和夫さんが私の野球理論を評価してくださったことがきっかけだった。
「あなたの野球理論を見聞きしましたが、非常に感心しました。ぜひ監督になってもらいたい。うちの選手たちに野球とは何か、本物の野球を教えていただきたい」
そんなふうに言われて嬉しくないわけがないよな。やってきたことは間違いじゃなかったと強く思ったね。