事故が起きても文化として定着

始まりは、2014年にブームになった〈ネックノミネーション〉というゲームだ。アルコールをイッキ飲みするところを自撮りし、その動画をフェイスブックなどのプラットフォームを介して一般公開する。その際、誰か別の3人を指名して、二四時間以内に同じことをやるよう命じるのだ。アメリカ発祥の〈コールドウォーター・チャレンジ〉も同じ要領だ。このゲームの参加者は、冷たい水に飛びこむか、友人たちに食事をおごるか、どちらかを選ばなくてはならない。当然のことながら、多くの勇気ある者たちが池やプールに飛びこみ、一万九六〇〇本以上の動画がYoutubeにアップされた。

それに伴い、滑ったり転んだりといったアクシデントも数多く発生し、時に大事故を引き起こしている。フランスのブルターニュ地方では、片脚に自転車をくくりつけて水に飛びこんだ青年が溺れて命を失った。パ・ド・カレ地方では、頭蓋骨折と頸部損傷の重傷を負った者がいた。そうした悲劇が起きても、多くの参加者が、自らの配偶者やきょうだいを次の挑戦者に指名している。

リアリティ番組とも共通する「傍観者のサディズム」

チャレンジ動画を撮影するために命を落としたり、家族を危険にさらしたりする行為は、おそらく「バカ」と呼んでよいだろう(それに対する反論はほとんどないように思われる)。こうした行為には、前述したSNSの三大特徴のひとつと、テレビのリアリティ番組にも共通するある特徴が見られる。

SNSの三大特徴のひとつとは、もちろん「生活のスペクタクル化」だ。チャレンジ動画の投稿者にとって、興味の中心は「チャレンジ」そのものではなく、他人に見られることだ。アイルランドの哲学者、ジョージ・バークリーの有名なことば、〈存在するとは知覚されることである〉は、デジタル時代に生きる人たちのための格言なのだ。

そしてもうひとつ、テレビのリアリティ番組に共通する特徴とは、「当事者と傍観者の完全なる分離」だ。当事者が苦しむ姿を傍観者はただ見ているだけだ。当事者が悲鳴やうめき声を上げるほど、傍観者は喜ぶ。こうした傍観者のサディズムについては、古代ローマ時代の哲学者、ルクレティウスが『事物の本性について』ですでにこう言及している。

「風が水面を大きく波だたせる広い海で、他人が厳しい試練を受けているさまを、地上で見ているのは快いものだ。他人が苦しむのが嬉しいのではない。あれほどの苦しみを自分が受けずに済んだことが快いのだ」