スケジュールを組み立てられないという人は、前の日から「明日達成すべきこと」の目標を設定しましょう。それがあれば、自ずとやるべき行動が見えてきます。

大阿闍梨、仙台慈眼寺住職 塩沼亮潤氏
大阿闍梨、仙台慈眼寺住職 塩沼亮潤氏

私の場合、若いときから「世界一の宗教者になりたい」という夢を持っていたので、常にやるべきことだらけでボーッとしているヒマがありません。だからコロナ禍で行動が制限されても、生活スタイルは何も変わりませんでした。

次に「行動」をどうすればいいかというと、周りに人がいないときこそ、より規則正しく生活して、自分を律するように心がけましょう。テレビを観るときは寝転がらずにきちんと座る。読書も床が畳だったら正座して読む。身の回りの整理整頓をして、いらない物はすぐに捨てる。こうした行動を私は「慎独」と呼んでいます。人が見ているところだけカッコつけて、見ていないところでだらしなく過ごしていたら、自分にウソをついているようで自信が持てません。思い切ってオンとオフの切り分けをなくして、「常に素のままだから全部見てくれ!」というスタンスで過ごすと、ストレスがなくなります。

「そんなことは自分にはできない」と思う人がいるかもしれませんが、そんなに難しいことではありません。人間は「怠け癖」と「努力癖」の狭間で生きています。そしてほとんどの人は、怠け癖に向かってしまうものです。きびしいことを体験するより、楽をしていたいですから。でも、そこで心の方向を努力癖に向けようとするのです。頑張りすぎると心身がバテて続きませんから、怠け癖と努力癖の真ん中よりやや努力癖寄りぐらいでかまいません。それを続けていると、だんだん努力癖が身について、そのリズムで生きていると、とても心地よくスッキリとするものです。

本当の修行は山ではなく里にある

お坊さんはなぜきびしい修行をするのでしょうか。お坊さんは自分より年長者の悩みに対応することがあります。そこで人生の先生として何かを教え伝えるためには、一般の方が一生涯で会得する人生の行を、一定の期間で会得しなければなりません。そこで強いプレッシャーとストレスをかけて成長すべく、きびしい修行をするのです。

といっても、坐禅や滝行といった苦行が、修行のすべてではありません。苦しいことに耐えたから悟れるものではない。それぞれに与えられた立場でそれぞれに与えられた役目を果たしていくなかでも、多くのことを感じて悟ることができます。そう考えると、ビジネスマンも主婦も、みなさん人生という修行なんです。