不倫を叩く資格があるのは配偶者だけのはず
ところが時代は流れ、スターや芸能人が身近な存在となった。当然、一般社会のルールが芸能人にも適用されることとなり、彼らの「特権」はなくなっていく。それがいいことなのかどうかはわからない。そして、本来、糾弾できるのは配偶者だけであるはずの「不倫」「浮気」「婚外恋愛」が、一般人によって叩かれるようになった。婚姻とは契約である。だから契約違反をした場合、追及できるのは契約を結んだ人だけ。つまり、配偶者だけなのだ。
さらにそこにネットの存在がある。「正義」をふりかざせば、誰も反論はできない。そこで「正義依存症」が増えた。新型コロナウイルス感染拡大に伴って、「自粛警察」が跋扈したように、「正しくないことは許さない」人たちが増大している感がある。白黒つけずに、グレーのまま「まあまあ、こういうこともありますわ」と反応していた、ある意味で「日本ならではの曖昧文化」が駆逐されようとしているのだ。
思えば、最初に大きく叩かれたのは石田純一氏ではなかっただろうか。不倫疑惑に応えて、「不倫からいい文学や音楽が生まれることもある」と言ったのが、スポーツ紙の見出しに「不倫は文化」と書かれてしまったことで不遇の時代を送ることとなったのが1996年のこと。だがあの頃はまだネットは普及しておらず、本人は大変だっただろうが、市井の人々は笑って見ているゆとりがあった。
まだ、芸能人の話は「あちらのこと」だったのだ。
その風潮が変わったのは、2013年の矢口真里事件。既婚の彼女が自宅で不倫中に夫が帰宅したのだ。一部女性からは「やるじゃん」という声が聞こえたのだが、世間は許してくれなかった。その3年後のベッキー事件は、さらにすさまじいバッシングの嵐となった。「文春砲」と「ネット」の二段構えの前に、「人のスキャンダルを楽しむ」のは下卑たこととなり、「正義をふりかざす」ことが主流となっていったのだ。
契約と愛情は切り離して考えたほうがいいかもしれない
「正義依存症」の背景には、鬱屈した社会のありようがある。20年以上、不倫について取材を重ねているが、最近多いのは、「あいつだけ得している」「あいつだけいい目を見ている」という妬みそねみの声である。もちろん、配偶者がそう考えるのは当然。共働きなのに家事育児の負担が大きい既婚女性の夫が不倫をしたなら、思い切り糾弾するなり離婚届を突きつけてやるなりすればいい。だがそれを他人がとやかく言うのはおかしい。
そもそも「結婚」がなければ「不倫」も存在しないわけで、たまたま婚姻という契約を結んでしまったために、心まで束縛されていいのかという理屈も成り立つ。契約と愛情の問題は重なることもあれば切り離して考えたほうがいい場合もあるのかもしれない。
2016年に出版した『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)で、筆者は行動遺伝学、宗教学、昆虫学などさまざまな分野の錚々たる研究者たち8人に、「人はなぜ不倫をするのか」というテーマでインタビューをおこなった。その結果、誰ひとりとして不倫を完全否定しなかったという事実がある。もしかしたら、「ヒトの婚姻」という形そのものに無理があるのではないかとも考えられる。
実際に不倫の恋の渦中にある当事者たちの多くは、今回の「渡部式不倫」を苦々しく思っている。なぜなら、「あれを不倫と言ってしまったら、マジメに不倫をしている自分たちが貶められている気がする」からだ。ダブル不倫(既婚者同士)をしている40代の女性はこう言う。
「私たちはあくまでも恋愛をしているんです。結婚してから、他にもっと好きな人が出てきてしまっただけ。子どものことなどを考えると離婚はできない。だけど身も心もわかりあえる彼と別れることもできない。苦渋の決断で、他人から見たら不倫と言われる関係をひそかに続けているんです」