経済成長を支えた「非合理的不採算企業」
清和会内閣が支配する以前、田中・竹下系内閣が一時期自民党派閥の頂点として君臨してきた時代、「本来、市場の摂理に任せておけば倒産するべき不採算企業を、公的助成や支援で温存してきたために、日本経済の生産性は低くなっている」という批判が跋扈した。こういった批判が、のちの構造改革路線・新自由主義路線につながることとなる。
しかし50年代~70年代前半の高度成長下、いわゆる「非合理的不採算企業」は都市部・農村部を問わずいたるところに存在した。従業員が10人未満の下請け町工場が工業地帯には乱立し、都市下層民の雇用を支えた。当然、ひとたび不況の風が吹くとそれらの企業は倒産し、不況が収まると類似企業が息を吹き返した。こういった企業は、あきらかに「非合理的不採算企業」だが、当時はこういった企業の近代化の必要性は唱えられど、「潰れるべき企業は潰れてしまって構わない」という意識は希薄だった。なぜなら経済全体が成長していたし、そういった経済成長はとどのつまり大企業の下請けとして機能していた「非合理的不採算企業」が支えていたからである。
今こそ必要なのは迅速かつ大胆な支援である
ところが経済成長が一服して日本経済に成長余地が無くなると、こういった「非合理的不採算企業」への補助や支援は無駄だ、というように言われるようになった。市場原理という競争社会の中では、こういった企業は自然淘汰されていくべきだ、という考え方が主流になり出した。しかし現代的市場経済は、すべてにおいて市場原理主義を肯定しているわけではない。外部から見て不採算、非合理的と見なされる企業や人にも、社会の中で一定の役割を担い、ややもすればそこから大発明や天才が輩出されることもある。すべての企業や人を合理的か否か、不採算か否か、で決めてしまえば、小説も演劇も音楽も一切必要が無い、ということになる。
しかし社会の構造はそうなってはいない。たとえ一見不採算でも非合理的でも、社会の構成員として一定の役割を果たしている企業や人を、市場原理の名のもとに切り捨ててよい法は無いのである。清和会内閣として最も「長寿」を誇る第2次安倍内閣には、この視点が欠落しているように思えてならない。今こそ必要なのは「市場原理に任せておけば淘汰されかねない企業や人」への迅速かつ大胆な支援である。ここを怠ると、大変なしっぺ返しを食らうであろう。