銀座の文壇バー・クラブザボンのはじまり

ザボンは1978年、銀座6丁目のビルで始まりました。広さはたったの3坪。カウンターの席しかない、とても小さなお店でした。私はザボンを開くまで、「眉」という文壇バーで働いておりました。そこへ来ていたある雑誌の編集長に、「手ごろな物件があるからやってみるといい」と言われ、同じくお客さんだった丸谷才一(2012年没)先生も「いいんじゃないか」とおっしゃられて開業することに。店は順調で、89年には赤坂に蕎麦割烹「三平」をオープンし、たくさんの先生方にお世話になりました。

しかし、それから約20年後、リーマン・ショックに東日本大震災と日本の不況が続き、店の経営もどんどん厳しくなっていきました。利益が出なければ、自分の貯金を切り崩すしかない。ザボンも「三平」も、両方潰れてしまうのではないかと、夜も眠れない日々が続きました。

そんなとき、相談に乗ってくれ、応援してくれていた先生たちや恩人たちが、次々に亡くなっていきました。とくに丸谷先生が亡くなられたときは、ひどく落ち込みました。ザボンも「三平」も名付け親はこの丸谷先生でしたから。

私が「ザボン」を閉めることができない理由

「三平」を手放してしまった後悔から、ザボンは「体が動かなくなるまでやり遂げる」と決意。いまでは銀座屈指の老舗となった
撮影=市来朋久
「三平」を手放してしまった後悔から、ザボンは「体が動かなくなるまでやり遂げる」と決意。いまでは銀座屈指の老舗となった

とうとう私はストレスで大腸ガンを患い、ドクターストップを受けました。店の顧問会計士にも「ザボンか三平、どちらかを選ばなければならない」と念を押されてしまいました。

毎月のように膨らんでゆく赤字を見ると、何もかもが嫌になってきてしまいました。思考停止の状態に陥ってしまい、魔法にでもかかったかのように、店をやめたほうがいいんだと思い始めるとスッと気持ちが楽に。偶然にも、「三平」を欲しがっていた方がいたので、タダ同然で譲り渡してしまったんです。

しかし、「三平」は私にとって思い入れのある店でした。あとになって考えてみると、閉める必要なんてなかった。もう少し頑張ればやれたものを、どうして私は簡単に手放してしまったのだろうと後悔の念に駆られました。丸谷先生たちの恩を、私の一時の気の迷いで台なしにしてしまったような気がして、とにかく自分を恥じました。

「三平」の閉店は私の人生のなかでも、もっとも大きな失敗でした。だから、ザボンだけはなにがあっても体が動かなくなるまでやり遂げると、そのとき決意したのです。