ドラマ『坂の上の雲』では、真之は日清戦争時に巡洋艦筑紫に乗り、そこで戦争の恐ろしさ、むなしさ、指揮官の難しさ、兵士一人ひとりの命や国の命運を預かることの重さを初めて体験して苦しみます。そこで率直に、上司である東郷にその思いをぶつけるシーンがあります。
真之は不躾に「よき指揮官とは何でしょうか。アシにはそれがようわからんのです。東郷さんは自分の出した命令を後悔したことはありませんか」と問います。東郷は「自分の命令で1100人という相手国の命を奪った。自分も人殺しをしたのだ」と言い、続けて「指揮官は、決断して命令を下すのが仕事で、いったん刀を抜く覚悟をしたら、あとは戦うだけだ」と話します。
真之もそれに賛同するのですが、どんなに決断しても、悔やむ苦しみから逃れられないと訴えます。すると東郷は「おいも人間、そいはおはんと同じじゃ。悩みや苦しみとは無縁ではなか。じゃどん、将たるもの、自分で下した決断を神の如く信じられにゃあ、兵は動かせん。決断は一瞬じゃけん。しかし、準備には何年、何十年とかかる……そこを考え抜くのがおはんの責務じゃ」と答えます。指揮官の背負う孤独が伝わるやりとりだと思います。
『坂の上の雲』は、誰か一人のカリスマ的な力が国を動かしたということではないところに、ささやかだけれど非常に重要なメッセージが多々あります。明治は、近代国家になったといっても、それまでの「藩」という小さい派閥の寄せ集め国家です。それぞれ個性があり、能力のばらつきがある。そうした中で明治の人は、新しい国、国民という呼ばれ方も寛容に受け入れ、必死で身につけていきました。
国外からは西洋の「猿真似」と言われもしましたが、司馬さんは子規に、「猿真似のどこが悪い、日本人にはそれだけ優れた吸収力があるのだ。日本には深くて大きな皿がある。そこにいろいろなものをいくらでも並べて盛ることができるのが日本のおもしろさ、すごさだ」と言わせています。
こうした大きな変化を受け入れる柔軟性は、日本人の特性だと思います。大国ロシアの脅威に国の命がさらされているとはいえ、人間が変わるということは、本来難しいこと。でもそれを乗り越えようとする前向きな愛国心と健気さが最終的にひとつに固まって、巨大なエネルギーになった。