徹底したリサーチを支えた担当者としてのプライド

これまでなかった商品を生み出すには、やるだけの価値がある、とたくさんの人を納得させ、味方につける必要がある。

「とにかく勉強は人一倍していましたね。担当者というからには、誰に何を聞かれても自分が一番詳しく答えられるレベルになっていないと説得力がないでしょう。病気のメカニズムや薬剤の特徴、他社品との差別化、市場規模の予測……いろんな視点で情報を集めるリサーチに時間と労力をかけていました」

話す男性
撮影=小田駿一

リサーチといっても、今のようにインターネットはない時代だ。最新の知見を得るために、大学の図書館にこもって文献をめくって1日を過ごしたり、知り合いの専門医を頼って会いに行き、何時間も質問攻めにしたり。手と足を使った地道なリサーチを重ねることで、周りの信頼を得て、社内外のネットワークを構築していった。山田さんにとって、その原動力は担当者としてのプライドだった。

「ヒット商品に恵まれた僕はラッキーですよ」と謙遜するが、それだけの努力を惜しまなかったことが伺える。知らなかったことを知る喜びの先に、道はどんどん開かれていった。

50歳から再びはじまった「ゼロから調べる日々」

50歳でロート製薬に移ると、山田さんが突き進む領域はさらに広がった。転職のきっかけは知人からの紹介による。「より開発という仕事の可能性を広げられる環境だと感じて」という動機だった。

山田さんがロート製薬に入社した2000年頃は、同社の事業展開が大きく転換したタイミングだ。

「目薬の開発をずっとやるつもりでいたら、いきなり『これからは化粧品を開発していく』と発表があり、驚きました。社内ではまったくの新規事業。かつ、業界としても新しい“機能性化粧品”という分野に打って出ると。化粧品のことなんて、よく知りません。またゼロから調べる日々がはじまりました」

今では「肌ラボ(ハダラボ)」「オバジ」などスキンケア商品の認知度も定着した同社だが、20年前のイメージは「目薬の会社」だった。現在の多角展開につながる重要なターニングポイントの時期に、山田さんはいたのだ。

教科書がない仕事であるほど燃えるタイプなのだろう。山田さんは、この時も「どうやったら、お客様に分かりやすく商品の機能性を訴求できるだろうか?」とシンプルに考えていった。