組織や社会の変化につれ、恐怖をもって支配するリーダー像は過去のものとなりつつある。それでも鬼上司でいなくてはならない場合、果たして彼らは同時に部下からの愛も勝ち取れるのか?
かの『君主論』でマキャベリが出した回答とは
500年近く前、ニッコロ・マキャベリは、かの有名な著書『君主論』の中で、「リーダーは愛されるほうがよいか、恐れられるほうがよいか」という問いを提起した。彼は、もし両方を併せ持つことが不可能なら愛されるよりは恐れられるほうが有効だという結論に達している。実際、この両方になれる人間はほとんどいないのだ。
そもそも、人間という複雑な生き物は、白か黒かの二分法ですっきり分けられるものではない。人の行動というものはたいてい白と黒の中間、つまりさまざまな濃さの灰色のところにあるものなのだから。にもかかわらず、「恐怖か愛か」という二元的な問いは、歴史を通じ、リーダーたちにとって普遍的なものとなってきた。
1世代ほど前までリーダーといえば、「恐れられるもの」というのが一般的なモデルだった。例えば、1950年代、60年代には、公立学校においてさえ教師による体罰が広く見られていた。そして、職場は概して階層的かつ専制的な場所であり、ルールに従っているかどうかに基づいてリーダーが一方的に報酬や懲罰を決めていたのである。
しかし今日、ほとんどの先進国において、生徒を叩いた教師はただちに職を失うだろうし、職場においても、広く受け入れられるリーダーシップ・モデルとは、穏やかさを前面に出すものとなっている。
世の中のリーダーシップ・モデルのこうした変化は、工業経済から情報経済への移行を反映している。かつて、製造工場では厳しいルールが必要であり、労働者はきわめて単純かつ明確な生産性の測定基準に基づいて報酬を与えられるものであった。
だが、知識労働者に対してはそのような厳しさはあまり効果がないし、例えば、サービス業に従事する人々が常にリーダーの顔色を窺っていつもびくびくしていたのでは、顧客ににこやかに応対するのは難しいだろう。また、宣伝のような分野では、厳しい管理は社員の創造性や熱心な取り組みを妨げてしまう。