天皇に見せるため象に「従四位」の官位

吉宗は中国人の呉子明に白い象を所望したが、それが手に入らなかったようで、呉はベトナムから普通(灰色)の象のつがいを連れてきた。このときベトナム人の象使いも同行。ただ、長崎に上陸した牝象(五歳)のほうは舌のできものが悪化して死んでしまった。翌年三月、牡象(七歳)は長崎をった。途中の京都で中御門天皇が、どうしても象を見たいと希望した。ただ象は畜生で穢れた存在。宮中に入れることはできないので、なんと朝廷は、この象に従四位を叙したという(異説あり)。

大名でいえば、城持ち大名に匹敵する地位だ。こうして四月二十八日、象は天皇に拝謁。続いて霊元上皇、さらに貴族たちも見学した。このおり象は、前足をたたんで挨拶したり、みかんの皮を鼻でうまくむいて食べるなど芸を見せたと伝えられる。

この頃、江戸の町は騒然となっていた。象がやってくるという噂が広がったからだ。そして翌五月、六郷川を舟橋(舟を繋ぎ、板を渡して臨時につくった橋)で渡った象が江戸府内に入ってきた。

糞を薬にし、死後の骨まで有料展示していた

江戸っ子は珍獣を一目見ようと、その周囲に群がった。それ以前から象を題材とした錦にしき絵や人形、双六などが飛ぶように売れ、『象志』、『馴象編』といった本まで続々と出版された。いわゆる象フィーバーが起こったのである。

さて、江戸城内で将軍吉宗は象と対面した。残念ながら、そのときの感想は残っていないが、その後、大名や奥女中の見物も許された。それからの象は、浜御殿(現在の浜離宮)で飼育されることになった。ただ、大食いなので飼育代に莫大な費用がかかり、吉宗も飽きてしまったようで、民間に払い下げられることになった。

結果、中野村の農民源助らが面倒を見ることになったのだが、源助らは商魂たくましく、象の糞を麻疹・疱瘡の薬だと売りさばき、さらに象を見世物にして拝観料を取ったとされる。さらに象が死んだあとも、その頭蓋骨や牙を「象骨」と称し、湯島天神などで展示して金を徴収したのだった。まさに骨までしゃぶられたわけだ。

江戸人は薬としてミイラを食べていた

江戸時代の珍しい輸入品としてミイラがある。関西大学の宮下三郎教授によれば、寛文十三年(一六七三)、オランダ船が約六十体のエジプトのミイラを持ち込んで売り払った記録が残っているという。記録に残っていないものを含めたら、江戸時代に相当多くのミイラが日本に入ってきたのは間違いない。