かかる議論の末に、フリーザーが到達したのは、装甲部隊のダンケルク突入に熱心だったOKHに、誰が主人であるかを見せつけるために、ヒトラーはルントシュテットらに同調した、つまり、自己の権力を強調するために停止命令を出したとする説だ。
この⑦と⑧、そしてフリーザー説に示されている要因のどれかが決定的だったのかもしれないし、あるいは、そのすべてが複合的にヒトラーの心理に作用していた可能性もあろう。
孤立無援の連合国軍、大規模脱出を決行
いずれにせよ、英国の守護天使が授けたかとさえ思われるような好機が、看過されるわけはなかった。王立海軍は、商船216隻、スクーツ(喫水の浅い木製船)40隻、海軍艦艇139隻、さらに数百の漁船や小舟艇、全体で900隻以上をかき集め、「ダイナモ」作戦を発動した。
その目的は、包囲されたイギリス遠征軍とフランス軍ほかの連合軍の一部部隊を海路救出することだ。
風前の灯火だった連合軍部隊が脱出していくのを、グデーリアンとその装甲部隊は指をくわえて見ているほかなかった。こうして助け出されたイギリス軍将兵は、重装備こそ失っていたとはいえ、英陸軍再建の土台になっていく。
ドイツ軍に訪れた千載一遇の機会は空費されてしまったのである。
ダンケルク占領で西方侵攻作戦は結着
5月26日、ルントシュテットより状況の変化についての説明を受けたヒトラーは、ようやく停止命令を撤回した。翌27日午前8時、攻撃が再開されたものの、袋の鼠であったはずの連合軍諸部隊は、ダンケルクのほころびから逃れだしていた。
6月1日、ドイツ軍はダンケルク総攻撃を実施し、4日朝には同市を制圧した。彼らが見たものは、おびただしい数の遺棄された装備や物資であった。イギリス陸軍の中核をなす、訓練され、経験を積んだ将兵は、海峡のかなたに去っていたのだ。
ともあれ、ダンケルク占領によって、西方侵攻作戦は結着がついた。ドイツ装甲部隊が築いた回廊の南には、なお相当数のフランス軍部隊があり、ソンムとエーヌの両河川に拠って抵抗の準備を整えてはいる。
だが、主力を撃滅されたフランス軍が66個師団しか有していなかったのに対し、ドイツ軍は104個師団(ほかに予備として19個師団を控置)を投入することが可能だったのである。
赤号作戦(仏本土侵攻)と「グデーリアン装甲集団」の誕生
従って、フランスにとどめを刺すための攻勢、「赤号」作戦(6月5日発動)は、ワンサイド・ゲームの様相を呈することになった。
これに先立つ5月28日、グデーリアンは、あらたな装甲集団を編合し、「赤号」作戦に参加するよう、ヒトラーから命じられる。「グデーリアン装甲集団」の誕生であった。
6月1日にグデーリアンを司令官として発足した、この新装甲集団は2個自動車化軍団を麾下に置いていた。それぞれ二個装甲師団および1個自動車化歩兵師団を有する第39・第41自動車化軍団である。