停止命令は“あらためて”出されたもの

けれども、連合軍撃滅のチャンスが到来していると判断したブラウヒッチュ陸軍総司令官とハルダー陸軍参謀総長は、A軍集団の消極的な措置に怒り、全装甲部隊を握っているクルーゲの第4軍をB軍集団麾下に移す旨の命令を発した。

むろん、より攻撃的なB軍集団に突進を続けさせる企図である。

5月24日朝、ヒトラーが、シャルルヴィルにあったA軍集団司令所を訪れたときの情勢は、このようなものであった。

ルントシュテットから、A軍集団が第4軍を奪われ、脇役に追いやられたことを聞かされたヒトラーは、自分のあずかり知らぬところで、かかる重大決定がなされたことに激怒し、ブラウヒッチュの命令は無効であるとした。

その上で、あらためて装甲部隊を停止させると決定したのである。

はたして、ヒトラーを、かくのごとき誤断にみちびいた動機は何だったのだろうか?

ヒトラーを誤断させた8つの動機

1940年の西方侵攻作戦について、今なおスタンダードとされている研究書『電撃戦という幻』(1995年初版刊行)を著したドイツの軍事史家カール=ハインツ・フリーザーは、ダンケルク撤退直後から立てられたさまざまな説をもとに、考えられる理由を以下のように列挙している。

①ダンケルク周辺の地表は装甲部隊の行動に適さないと判断した(24日から雨が降りはじめ、地面が泥濘と化した)。
②以後、フランス全土を占領する作戦のため、装甲部隊を温存すべきだと考えた。
③連合軍による側背部への攻撃を恐れ、装甲部隊を控置しておいた。
④攻勢第2段階に関心が移っており、ダンケルク攻略は副次的な作戦であるとみなした。
⑤包囲した敵の規模を過小評価し、さほど重要ではないと思っていた。
⑥海上撤退作戦などは不可能であると考えた。

フリーザーによれば、この①から⑥は必ずしも強固な論拠を持つものではなく、反駁可能である。

重要なのは、⑦空軍力だけでダンケルクの敵を撃滅できるとしたドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(1938年2月4日進級)の大言壮語を信じたとする説と、⑧イギリスを講和にみちびくため、その面子をつぶすことを恐れて、遠征軍殲滅を避けたとする説であろう。

自己の権力を強調するため?

フリーザーは、⑦については、ゲーリングの発言は23日のことで、ヒトラーの決定に影響力をおよぼした可能性はあるものの、当時ドイツ空軍がかなりの消耗を被っていたことを考えれば(当然、総統の耳にも入っている)、決定的な要因となったとは考えにくいとした。

⑧に関しても、時系列に沿って検討してみると、ヒトラーが、講和のために手加減したと取れるような発言をしたのは、ダンケルク撤退の成功があきらかになってからのことであり、いわば失態をとりつくろう意味があったと退けている。