関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、取り潰される可能性もあったが、義と秩序を守る体制にしたかった家康にとって、上杉家はモデルにしたい家風だった。そのため、刑死や屋敷の没収などは免れ、石高を120万石から30万石とする減封で済むことになる。その後、上杉家は幕末まで生き残った。
「謙信の掲げた『義』は、当初は理解を得られなかったものの、家臣たちと共有することで上杉家の理念になりました。景勝がそれを継続していくことで価値として認められ、さらに磨き上げていった結果、『真の武士』というブランドにまで進化したのです。後継者経営においても、創業者の価値や理念を改めて見直し、継続していくことが大事。新たな価値やブランドを生む可能性があります」(同)
武田信玄●親の追放が尾を引き統治基盤が不安定化
息子・義信と対立した信玄は、切腹を命じる
自分自身も後継者だった武田信玄。しかし父の信虎が、弟の信繁に家を譲りそうな動きを見せたため、信虎を追放してしまった。時は流れ、息子・義信と対立した信玄は、切腹を命じることになる。
「おそらく、『父のように自分も追放される』という恐怖心があったのでは。そして窮余の策として、外様の家に継がせた四男の勝頼を呼び戻します。正式な跡継ぎではなく、その後見人という形式的な地位で、後継者としました」(石橋氏)
武田家が通常使っている旗を使えないなど、制限付きの当主となった勝頼。武田家は源氏から続く名家であるため、出戻りという形で当主を迎えるというのはタブーだった。そのため、「どうしてつなぎの当主に従わなければならないんだ」と家臣から軽んじられ、統治基盤は不安定化。結果、武田家は弱体化し、勝頼の代で終わってしまった。
「信玄が親から友好的に家を継げなかったことが、後々尾を引きました。従う者を恐怖政治で抑え込むのではなく、多くの者が納得する形で後継者に家を譲る。そうすることで統治基盤は安定し、後継者も能力を発揮しやすい環境になるため、事業承継がスムーズに進んでいきます」(同)