受け入れる移民を出身国で選別するのは悪いことなのか。青山学院大学国際政治経済学部の友原章典教授は「出身地をもとに移民をステレオタイプ的に分類することは的を射ている面がある。例えばニューヨーク市では、駐車違反で摘発された公用車のうち、社会の腐敗度が高い国からの外交官は反則金を踏み倒す傾向にある」という――。(第2回/全3回)
※本稿は、友原章典『移民の経済学』(中公新書)の一部を再編集したものです。
「××県人」というステレオタイプ的な見方は合理的か
理想的な人材を移民として受け入れるためには、個人のいろいろな資質に基づいて審査する必要がある。ただ、こうした審査をきちんと行うと大変複雑なものになるだろう。煩雑な手続きが必要となり、行政費用がかさむ。実務上、現実的でない可能性があるのだ。そこで、移民を受け入れるときには、執行面で取り扱いやすい基準があると便利だ。たとえば、何らかの基準でスクリーニングをかけるというのも一つの方法である。入学試験の足切りのようなものだ。
たとえば、移民を受け入れるときに、受け入れの対象となる国を選別すべきだという意見がある。○○人と△△人は受け入れるが、□□人は受け入れないというものだ。誰しも良き隣人を望むが、行儀の良い移民と悪い移民がいる。私たちが自国へ移住してきてほしいと思う人は、外国から移住したい人とは違うかもしれない。そこで、どの国の出身かによって、移民として受け入れるかどうかを判断しようという主張だ。
こうした取り扱いは差別的とも受け取られ、一見すると、悪いことのように感じられる。ただ、よくドイツ人は几帳面だとか、南米出身者はおおらかだとかいわれる。また、外国人だけでなく、内輪の日本人に対しても、しばしば似たような見方をする。たとえば、雪に閉ざされた長い冬を過ごす××県人は粘り強いとか、一年中温暖な気候でのんびりと過ごしている☆☆県人は時間にルーズだとかいうものだ。
これまでの研究では、出身国(地)によってステレオタイプ的に行動パターンを分類することは、ある意味、的を射ているとされている。たとえば、イタリアの銀行に勤める職員を対象にした分析では、イタリア内の出身地域によって、仕事をさぼる傾向に違いが認められている。