「つぶし屋」から百貨店アパレルへ
『アパレル興亡』では、婦人服メーカーを舞台に、戦前から現在に至るまで、85年間にわたる日本のアパレル産業の変遷を描いた。
日本で本格的な洋装化が始まったのは戦後である。戦争中、高級織物禁止令によって綿のモンペ姿を強いられていた日本の女性たちは、進駐軍の米国人女性たちのファッションに触発された。しかし、極度の物不足の時代だったので、着物や羽織の裏地を利用したり、男物のコートを上着に作り替える「更生服」が主流で、色合いも黒っぽく地味なものが大半だった。既成服業者は、別の衣料品を「つぶして」製品を作っていたので「つぶし屋」という蔑称で呼ばれた。東京スタイルの創業者、住本保吉氏も、戦前、山梨県甲府市の洋服店での丁稚奉公を経て、「つぶし屋」としてスタートした。
人々の洋装化が急速に進んだのは高度成長時代(一般に1954年~73年)である。「つぶし屋」から出発した日本のアパレル各社は、百貨店の隆盛と歩調を合わせ、百貨店を主な販路とする「百貨店アパレル」へと変貌を遂げた。
1965年(昭和40年)の大手アパレル・メーカーの売上げランキングは次の通りである。①レナウン162億円、②樫山(現・オンワード樫山)85億円、③イトキン43億円、④三陽商会39億円、⑤東京スタイル24億円。
デザインより営業重視だった日本の大手アパレル
日本の大手アパレル・メーカーの特徴は、営業中心のビジネス・モデルである。
BIGI、コムデギャルソン、ハナエモリといったDC(デザイナーズ&キャラクターズ)ブランド、あるいはクリスチャン・ディオールやラルフローレンのような海外の有名ブランドは、デザイナーがこんなものを着たい、作りたいという創造欲から出発した。
これに対し、レナウンや東京スタイルなど、日本の大手アパレル・メーカーは、戦後の衣料の西洋化という社会的変化に押されて業容を拡大し、クリエイティビティ(創造性)より営業に重点が置かれた。西洋化の波のおかげで、作れば売れたからだ。そのため婦人服メーカーであっても、社内に女性デザイナーくらいはいたが、経営トップは高野義雄氏のような営業出身の男性で、マーチャンダイザ―(商品開発・販促を行う重要職種)も皆男性、営業も全員男性だった。そして百貨店もほとんどのバイヤーが男性だった。
取材をしてみて驚いたのは、アパレル業界の体育会的体質だ。その筆頭が東京スタイルである。営業マンは全員黒か紺の地味なスーツにネクタイ着用、仕事中の私語は一切禁止、終電間際まで連日の残業、上司が部下にびんたを食らわすのは当たり前という世界だった。
メーカー同士の争いも熾烈で、それが如実に表れるのが、百貨店で季節やテーマごとに行われる模様替えの際の場所取り合戦だ。各社がどこに商品を置くかは、百貨店の売り場責任者が事前に決めているが、模様替えが始まると、ハンガーラック(支柱に20~30のハンガーがぶら下がった陳列用具)を肩に担いだ各社の営業マンたちが一斉に平場に突入し、怒声が飛び交う中、少しでも広く、少しでもエレベーターに近い場所を獲ろうと血眼の争いを繰り広げたという。