信頼できる“ファクト”にあたれ

また、世の中で多くの的外れな議論が交わされるもうひとつの理由は、多くの人が信頼性の乏しい“フェイク”に基づいてロジックを組み立てていることである。

インターネットの発展によって、誰もが情報の発信者となり、その情報が瞬時に拡散される時代になった。おかげでずいぶん便利な世の中になり、筆者も情報収集のツールとしてインターネットを活用しているが、ネットの表層に浮遊している情報の九割以上はフェイクであり、ゴミも同然だ。

したがって、膨大な情報の中から“ファクト”を見極めるリテラシーというものが大事になってくる。

筆者の場合は、各国政府が発表する公式資料や金融レポートと、学術論文の内容をふまえていることが多い。論文は査読を経ているので、一般の人が勝手に発信する情報に比べればずっと信頼性が担保されているし、あまりにおかしな内容の場合にはすぐにその論文を批判する別の論文が出るからだ。

また、一般の人の中には、「ネットの情報は信用ならないが、テレビや新聞などのオールドメディアの情報なら信頼に足る」と思っている人もいるかもしれないが、わざと事実の一部分だけを切り取って印象操作をするような偏向報道も少なくないし、エビデンス(証拠)に乏しいニュースの垂れ流しが行われている。

新聞さえ「フェイクニュース」の可能性がある

そもそも新聞の記事が「極めて頼りないもの」であるということは、筆者が役人だった時代から身をもって体感していた。

筆者が財務省(当時は大蔵省)に入ったのは1980年のことだが、当時の大蔵省は広報部署はあるが、実際には各部局で広報が行われている、いわゆる局あって省なしという状況だった。その意味で「広報」を担当したこともあり、メディアの記者に対するブリーフィングもやっていた。発表する事項がある場合には、事前に資料をつくって記者に配布するのだ。

ところが、データを示しただけの資料だと、「意味がわからない」と言って記事が書けない記者がたくさんいた。そういう記者は同じ質問を何度も繰り返したり、的外れな質問をぶつけたりしてくる。そうした質問にいちいち答えていてもらちが明かないと思ったときは、み砕いて口頭で説明し、それでも伝わらないときにはわざわざ文章にして紙を渡すこともあった。すると、その文章がソックリそのまま記事になっていたことが、一度や二度ではなかった。

要するに、官僚は、その気になれば自分たちの言いたいことを自由に記者に書かせることもできるということだ。「権力のチェック」がジャーナリストの使命というが、新聞記事を書いている記者の中で権力を的確にチェックできるような人は少ない。 多くの場合、不勉強な記者や思い込みの激しいデスクであれば、こうして官僚から渡された情報に何の疑いも持たず、フェイクニュースを報じてしまうこともありえるのだ。